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「読書」歴史を考えるヒント

 ブログにはてなスターを付けてくれた人のブログを見に行ったら面白そうな本を紹介していた。「リンク:『もののけ姫』をもっと楽しむための読書案内! - 宇宙、日本、練馬」中世つまんねーとか言いながらもののけ姫が好きな人(俺だ!)におすすめなんだって。さっそく図書館で借りてきた。


 で、ざっと読んでいった。一時間ほどでひとまず一周。どうやらこれは呼び名の手垢を分析していく本みたい。呼び名って国・地域・民のこと。手垢ってつまり世俗化のこと。用語が世間に染みていく過程が歴史を考えるヒントになるということなのかな。「失われた日本語の豊かさ」もいわゆる“日本語の乱れ”系の退屈な主張とは違っていて、日常用語について考えるとわりと豊かな面白さがありますよ、という著者からの伝言のように感じた。闘病しながら書かれた本だからか文章に穏やかな迫力がある。

 さてじっくり読んでいく。


 この本のテーマがそのまま書き出しにあらわれていてびびった。結論から本文が始まる。

 日常、われわれが何気なく使っている言葉には、実は意外な意味が含まれていることがあります。あるいはまた、われわれの思い込みによって言葉の意味を誤って理解していることもしばしばあるのです。歴史の勉強をしていると、そういうケースに直面することが少なからずあります。
 しかも、そうした問題を考えることによって、従来の歴史の見方を修正せざるを得なくなったり、現代に対する理解が変わって、世の中がこれまでと違って見えてくることさえあるのではないかと考えます。
(中略)
 言葉を正確に捉えるという仕事は実に面白いですし、それによって意外な世界が見えてくる可能性を秘めています。
pp.11-13

 「日出づるところ」についての解説がびっくり。隋帝が怒った理由は「日の没する処」じゃなくて「天子」を名乗ったからだった。

 承平年間(931~938)に『日本書紀』の講義が行われた時の概略を記した「承平私記」「日本書紀私記」という記録に、面白い話が書かれています。この時の講師が、日本という国名について「日出づるところ」という説明をしました。そうしたところ、出席していたある参議から「今この国に在りて之を見れば、日は城内より出でず」という質問が出ています。つまり、日本国にあってみる限り、おひさまは自分の領域の中からは出ないんじゃないかというわけです。この重要な問いに対して、講師は何も答えていません。
 とすると、日の出るところは即ち、東の方角を指しているに過ぎないと理解するほかありません。つまり、日本とは地名ではなく、東の方角を意味する国名ということになります。
(中略)
 聖徳太子が出した「日出づる処の天子」という言葉で有名な国書に、なぜ隋の皇帝が怒ったのかについて、かつては「日の没する処」と言われたことに対して腹を立てたといわれていましたが、中国大陸にはそれほど強い太陽信仰はないようで、最近ではこれは誤りだといわれています。日本列島人には太陽の出る処をプラスと考える発想がありますが、中国大陸人は日の沈む処と言われても軽蔑されたとは考えないようです。隋の皇帝を怒らせた理由は「天子」という言葉をこの国書が使っていたからで、天子は世界に一人しかいないのに、東の野蛮人ごときが何を言うか、と隋帝は怒ったのだと、最近の学者は考えています。
pp.20-21

 「よい字を用いよ」なんて話があったんだ。そうやって地域が整備されていく。

 日本国は、自分の支配下に入った地域に国・郡・郷(最初は里)という行政単位を設定しました
(中略)
 毛野という地域の名から上毛野、下毛野(上野、下野)という国名を定めるというように、それまでに存在した歴史的な地名を、ある程度取り入れた形でつけられていきました。そして、八世紀には「よい字を用いよ」ということになり、例えば三野国は美濃国、山背国が山城国になっていますが、最終的には六十六国、二島ということに落ち着きます。
pp.28-29

 8世紀ごろの日本に大きな道は不必要だったのに作ってしまう。そして80年ほどで廃れていく。時間経過や内容が神話のよう。

 日本に限らず、ローマにせよペルシャにせよ、古代の帝国は領土を拡張するための軍事的な目的で、必ず直線的な道路を作りました。インカ帝国にも細く真っ直ぐな道がありますが、3500メートルの高地にあるクスコまで使者がその道を駆け登っていったそうです。ローマや中国大陸の帝国の場合は、戦車が通れるだけの広さの道になっています。しかし日本の場合、江戸時代まで本格的に戦車を使った形跡はまったくありません。それ故、どうしてこのような広い道を作ったのかについては、議論があるようですが、軍事的な目的であったことは間違いないと思われます。東への道は東北人との戦争のためですし、西への道は朝鮮半島の神羅との戦いを予想して作られたものと考えられています。
 ただ、この時期においても日本列島の交通体系の基本、生活に則した交通路は、海と川でした。ですから、当時の国家、日本国は非常に不自然な事業を行ったということができるのです。実際、二、三〇年でこの道は荒れはじめ、百年もたたないうちに、直線道路は荒廃してしまいます。そしておよそ七、八〇年ほどの間に、狭くなったり消えてしまったりして、元の自然な道へと戻ってしまいました。自然な道は、やはり海や川との接点を持ちながら通っていく道だったのです。
pp.30-31

 日本は孤立した島国ではないという話。図をみて納得。あー確かにただの離れ島だという感じ。これは環日本海諸国図というのだけれど権利の申請が面倒なのでGoogleマップを回転させてDIYしました。

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 この地図を見ると日本列島は実際には、アジア大陸の南と北とを結ぶ架け橋のような存在だったと考えられます。この橋を渡って、北からも西からも南からも、あるいは東からも人や物が出入りしていたことは、疑うことのできない事実だと思います。そして、その人や物の流れが、旧石器時代から縄文時代にかけて、すでにフォッサ・マグナを境にして東と西とで異質な文化を生み出していったのです。
p.34

 日本の中心がある場所によって地域呼称が相対的に変わっていくという話が面白い。中心がずれたり分かれたりしていく。ちなみに「関」の場所は不明だが見当はついていてこのあたり。

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『続日本記』の中に、聖武天皇が思うところあって、しばらく「関東」に行くと言った、という記述を見出すことができます。その当時の関東は、伊勢国の鈴鹿、美濃国の不破、越前国の愛発という三つの関の東という意味で使われていましたから、やはり「日本国」の中心である大和から見た言葉だったのです。
(中略)
「関西」とは、東の国家である鎌倉幕府の視点に立った呼称であることは、間違いないことだと思います。この場合の「関」がどこの関所を指すのかは不明で、先ほどの三関だったとも考えられますし、或いは碓氷、足柄の関だったかも知れません。おそらく三関の方だと思いますが、そこから西の地域を「関西」と呼んだわけです。これは東に視点を置いていなければ絶対に出てこない言葉ですから、それまでは畿内中心だった日本の地域呼称が、ここで大きな変化を遂げたと言えるでしょう。
pp.40-42

 この本の一貫したテーマになっている言葉の手垢について。ここで柳田国男の名前が登場してびっくり。手垢って学問上においてそれほど一般的な問題だったのか。

 これまでに挙げてきたいずれの言葉も、日本の社会の歴史の中で、ある種の“手垢”がついており、使い方によっては言葉の本来の意味とは違う理解、解釈が入る可能性を持っていることが、今述べたことからおわかり頂けたかと思います。我々のような研究者も、学問上の用語として普通の一般人を指す場合に、何が最も適切であるのか昔から苦心してきましたが、そうした“手垢”にまみれていない言葉として「常民」の語を用いたのが柳田国男と渋沢敬三でした。
p.58

 批判に噛み付く著者が面白い。スルースキルが低くて「和を乱す」とか周囲に疎まれるタイプなんだろうなと勝手に類推して共感。

 字義通りにとらえれば「百姓」は「あらゆる姓を持つ人々」あるいは「あらゆる職業の人々」が本来の意味であり、一般の普通の人々を指す言葉なのです。そこには先ほども述べたように、「農民」の意味はまったく含まれていません。
 私がこう言いますと、ある学者は、「百姓」の読みは本来は「ひゃくせい」で、普通の人という意味だったのが、中世に近づくと「ひゃくしょう」と読むようになり、農民を指すようになったと言って、「百姓」はやはり農民だと強調し、私を批判されました。しかし、全くの俗説といってよいと思います。漢字の音には――(中略)――あり得ません。何となくもっともらしく聞こえるようなこうした説は、きちんと根拠を調べてその当否を明らかにしておく必要があります。
pp.69-70

 百姓を農民だと思いこむことのまずさ、それと思い込みが社会へどのように浸透していったのかを丁寧に説明くれるのが嬉しい。『物理学はいかに創られたか』に書いてあった言葉で「説明をするときはわかりやすく丁寧に、かつ絶対に論理を省かない」というのを思い出した。

 全国の職業別人口統計では「農」78%、「商」7%、「工」4%で、江戸時代末の日本は商工業の全く未発達な農業社会ということになっています。この数字が非常に大きな歪みを持っていることは明白で、商工業の比重ははるかに高かったに相違ありません。
 なぜそのような湾曲が行われたかは大きな問題ですが、明治政府自身が百姓・水呑を農民と思い込んでおり、農業を発展させることを最大の眼目にすると共に、江戸時代を商工業の著しく未発達な社会と見て、欧米にならって商工業を発展させようとしたことが、背景にあると考えられます。
(中略)
 こうした政府の姿勢によって、日本列島の人々が古くから携わってきた海や山に依拠した様々な生業が切り落とされ、我々自身の視野から消え去っていくことになりました。
p.88

 倭寇にも事情があったんだ。サガフロ2っぽい。

 西北九州の松浦地方に松浦党という「海の領主」たちがいたのですが、彼らが抱える下人は「海夫」と呼ばれていました。海夫たちは一類・党をなして船で広い範囲の海域を移動しながら、鮑を採り網を引いて生活していました。また、松浦党の領主たちは中国大陸・朝鮮半島の人々を相手に貿易を行うと共に、14世紀から16世紀にかけて「倭寇」という武装集団としても活動しましたが、その手足となって動いたのが海夫だったのです。
p.100

 はっきりしていないことも話してくれて親しみがわく。「今こんなふうにやってます」という感じ。

 下人はこれまで考えられてきたように、過酷な労働を強制される「奴隷」ではなく、形の上では人身売買の証文によって「奉公人」となったように見えながら、実は契約によって雇傭され労働していた人々と考えうる事例が、少なからずあるように思われます。その点に関しては、今後の研究を俟ちたいと思います。
p.102

 この人もしかしてアウトローなの?

 日本の場合、神人・供御人・寄人はこれまで述べてきたように、12世紀には一般の平民百姓と区別された身分として、国家の制度に公式に組み込まれました。私はこの制度を「神人・供御人制」と呼んでみましたが、これはまだ学界には通用していません。しかし、職能民がそのような身分になった理由の一つは、古くから商業や金融が神仏との関係なしには成立しえなかったためだと私は考えています。
p.110

 「北海道に被差別部落の問題はない」という文章に強い違和感。僕の親は僕の祖父母周辺から「アイヌは臭い」「部落には近づくな」さらに「アイヌの血は汚い(!)」と言われて育ったと話していた。北海道で生まれ育つと嫌でもそういう話は耳にする。僕と同年代のアイヌの知人が友人にカミングアウトできずに苦しんでいた実例も知っている。これは被差別部落の問題ではないの?

 差別のあり方は東国と西国とで違っていたと述べました。日本列島の中で、差別に関してそのあり方に違いが生じたのはなぜなのかは大変に重大な問題ですが、その前にまず確認しておかなくてはならないのは、現在の日本において北海道と沖縄には被差別部落は存在しないということです。
 北海道に関していえば、もともとアイヌの世界にはそうした差別はありませんし、明治以後に本州から大量に移住した人々も、なお調査の必要はあると思いますが、特に差別の問題を持ち込んではいないと思われます。
(中略)
 大阪出身と東京出身の二人の歴史家が東京の電車の中で差別問題について話を始めたところ、東京出身の歴史家は大きな声で「非人」「穢多」などの言葉を平気で使うのです。大阪出身の歴史家が驚いて、周囲を見回しながら「こんな場所でそんなことを言っていいのか」と注意したのですが、東京出身の歴史家は何のことやらわからずに怪訝な顔をしていた、ということがありました。
 このように、差別問題に関しては関東人が「鈍感」であると言っても、間違いないと思います。差別発言で糾弾を受ける人に東の出身者が多く、それはたとえ悪意によるものではないにせよ、無知、鈍感であるとの誹りは免れないでしょう。
 実は、私自身も山梨生まれの東京育ちであり、二十歳になるまで生活の中では全く未経験で、被差別部落について本当に知ったのは歴史を勉強し始めてからのことなのです。関西の方々と話をすると、子供の頃から差別を受けた、或いは逆に、被差別部落には近づくなと親から言われたなど、様々な話を聞かされるのですが、私にはそういった肌に直接響いてくるような深刻な体験は全くないのです。
(中略)
 この問題を論じる場合、まず日本列島の中でも地域による実態のちがい、そのことからくる著しい認識の差異があることを、決して忘れてはならないと思います。それを無視して、発言したり行動した場合、誤って人を傷つけることも起こりうるのです。
pp.114-115

 非人はキヨメの役割を担っていたという話にびっくり。差別語だと思い込んでいた。こういう価値観のひっくり返しは気持ち良い。

 奈良坂の非人は興福寺・春日寺の寄人で、まさしく「仏の奴婢」でした。このように非人は神仏の直属民ですから、当時の人々は非人に手をかけると神罰・仏罰がたちどころに下ると考えていました。ですから、非人は他の人々に恐れられていたことは確かですが、それは賤視されていたというより畏怖されていたと考えるべきだと思います。
 実際、この時期には非人自身も、自分たちは神仏のために「清目」という大変に重要な仕事をしているのだという誇りを持っていました。鎌倉時代前記に奈良坂の非人が書いた訴状が残っていますが、その中で非人は自らのことを「本寺最初、社家方々の清目、重役の非人」と称しています。「重役」とは大変に重要な役目という意味であり、非人たちは「清目」という「重役」を職能していることを周囲に対して堂々と誇らかに公言していたことがうかがえます。
(中略)
 ところが、時代が降って16世紀頃になると、非人は自らを「人非人」と言い、「浅間敷者」などと言うようになり、我々は賤しめられていると自ら認めるようになってきます。
p.123

 この人の「むやみに差別してはならない」というスタンスは基本的に好きだ。ただ、「我々は被差別身分の人々の価値を理解すべきである」という主張に文明寄りの目線を感じてしまい心がざわつく。僕は、映画『GO』で在日朝鮮人の主人公が言った「国籍なんて10円で売ってやる」ぐらいの価値観がもっとも好きだなとあらためて思う。

 『解体新書』が翻訳されるきっかけとなった人体の解剖を行ったのも、「穢多」と呼ばれた人々だったのです。このように、医学の発達にも、被差別身分の人々が大きく寄与していることは、決して見落としてはならないと思います。その他にも様々な分野で被差別身分の人々の創り出したもの、その遺産が多くあると思いますが、これをさらに追求していくことが必要であると、私は考えています。
p.138

 地頭ってそういう仕事だったんだ。強圧的な支配層という印象があった。

 14世紀頃の荘園・公領の地頭の代官は、「泣く子と地頭には……」という諺のような暴力的・強圧的な支配を行っていたわけではなく、市場での相場を見て売買する能力や、安全な手形を入手する方法、有力者を接待したり百姓と付き合って年貢を事なく収めさせる力量、更に経営の結果を帳簿にまとめて決算書を作る能力などを持っていなくてはならなかったのです。そうした能力は長い間に蓄積されて、江戸時代頃には非常に高度なものにまでなっていました。
p.160

 よくわからない話もある。「落とす」と「埋める」の意味についての話がそう。すぐに納得できる話ばかりではないというのは「攻略しがいがある」みたいな感じで面白い。

 土の中に物を埋める行為には、「落とす」と同様に、埋めた物を神仏のものにするという意味がこめられていたと考えられます。実際に、石川県の鶴来から出土した銭が納められていた箱には、神仏への供物という意味の言葉が書かれているのです。
p.169


 価値観のひっくり返しがいくつもあって面白かった。その理屈はどうかという印象も少なからずあったがそうでもしないと思い込みは覆らないので良いと思う。この人は主流へのカウンターが上手いのだろうなと思った。そういう意味で「網野史観」という言葉があるのかと納得。いま考えている印象は手垢にまみれてる、という主張はおもいっきり心に響いて気持ちよかった。こんな人がいたんだ。

 この本の他に『日本の歴史をよみなおす』『続・日本の歴史をよみなおす』『「忘れられた日本人」を訪ねて』も図書館で借りてきているので読む。とりあえず“網野史観の一端に触れた”ので、これらはざーっと読んでいく感じでいいかなとも思ってる。

歴史を考えるヒント (新潮文庫)

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日本の歴史をよみなおす (ちくまプリマーブックス)

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続・日本の歴史をよみなおす (ちくまプリマーブックス)

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