知らないことを調べるブログ

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統一しづらいものを資料として整理するためのもの「世界の民話〈25〉解説編」

 最近読んだ本。
・世界の民話〈25〉解説編 (1978年)
 世界中の民話を収録した「世界の民話」シリーズを、物語の話型を中心に関連付けていくための索引として作られた解説編。
 暇をつぶすにはとても役に立つ本だった。


 柳田国男が民話のジャンル分けに貢献した話。動物ものが一番元にあったのではないかという説があり、柳田はそれを否定した。

ヨーロッパでは、一番元には動物の話があったのではないかという考えがあります。つまり古代では、人間が動物を自己と同化して考え、動物に人格を与えた形の動物の話というのがまず存在しただろう、それから人間の話があとから出てきたであろうと考えられているわけです。アールネ=トムソンの「昔話の型」でも動物昔話が一番最初に置かれ、それから本格昔話、笑い話となっています。それについて柳田は、動物昔話があらゆる話の最初に存在したというのは、あまりに単純な考えだといっています。それで別な論理をたてて、「宗教」「派生」という二分類をたてたわけです。(p5)


 民話の強い類似性について、羽衣物語を例にした解説。同じ話がみつかる驚異を追体験させてくれる。すごいわくわくする。

たとえば羽衣物語ですが、日本では三保の松浦に天女が舞いおりてきて、と非常に日本的な調子で語られます。しかし、その三保の松浦という固有名詞を除いて、話のすじだけ追ってみますと、ある超自然的な存在が山の中の湖へ来て、衣を脱いで水浴びをしている。そこへ人間の男が現れて、しかもたいていは、狩人や木こりのように山で仕事をする人間なのですが、その男が衣をひとつ取ることによって、その衣の所有者を妻にする。そして子供が生まれる。妻はいつも衣を捜している。何年かたって――たいてい七年ですが――妻は何かのきっかけで――たいてい子供が教えてしまうことになっていますが――衣を発見してしまいます。日本でもベトナム(「アジアⅡ」編六番「よいの明星と明けの明星」)でも、男が衣を隠しておく所は食物を置いておくところです。大事で、もっとも安全なところ、火事などの災難からも守られやすい所として共通しています。衣を発見して妻はそれを着て逃げていきます。日本でもベトナムの類話でも天へ帰りますが、ヨーロッパの場合は、はるか遠くの山のほうへ逃げていきます。そして、逃げていくときに、日本の場合では、子供に、自分は天に帰るけれど、ぞうりを千足につみあげれば天に届くから、それをのぼってあとから来い、あるいは瓜の種を植えると天までのびるからそれをつたって昇ってこい、と言いのこします。逃げていくくせに、自分の居場所とそこへ来る方法を教えていくのです。ここは注目すべき点です。ヨーロッパの場合でも、逃げていく場所と、そこへ来る方法を教えていくことが多いのです。ヨーロッパでは、たいていその妻は竜につかまっている、そして男が竜を退治して、ふたりは再び結婚するとなります。ヨーロッパでも日本でも、男が妻と再会するには、ある試練を克服しなければならないのです。ヨーロッパでは竜退治です。日本では、千足のぞうりを集めて積み重ねることです。しかしそれがどうしても九百九十九足しか集まらず、あと少しというところで天に届かない。すると上から妻がひき上げてくれる、というかたちで天に昇ります。そこで今度は、妻の親が、大きな森の木を一日で残らず切れ、という課題を出します。妻の援助で男はそれを果たします。親がつぎに、切った木を一日でまきにしろ、という課題を出します。男はこれも妻の援助で果たします。最後に、木を切り去ったあとの土地を一日で畑にしろ、という課題を出されますが、これも妻の援助で果たします。この試練は日本にもヨーロッパにもたびたび出てきます(たとえば「ドイツ・スイス」編五番「七羽の鳩」)。日本では課題を果たした男が、最後に妻の父親に許された宴席で、妻から、瓜を食べてはいけない、と言われていたのに忘れて食べてしまう。すると大水が出てふたりは流されてしまいます。夫が七日、七日に会おうよ、と言ったのに妻のほうは七月七日に会おうよ、と言われたのだと誤解する。そこから七夕伝説につながっています。ヨーロッパの場合はそこで一回別れて、再び苦難を経て結婚しておわります。結末は少々違いますが、その前のところで切れば、これはほとんど同じ話と考えられます。
こういう強い類似をもった話がたくさんあります。このことをどう考えるか。つまり偶然に同じ話を各民族が創ったのか、同一の源から伝播したのか。これはいろいろ議論もわかれますし、証明することが非常に困難ですから、まだ定説は打ち出されていません。(pp25-27)


 民話収集についての啓蒙。“中央から伝えられてくることのほうが正しいという価値観の問題”という筆者の指摘はほんとその通りだと思う。あるある。しかし、判断に気をつけるべき記述も。不用意な若者disや感動的なエピソードは粗方いかがわしげである。
 これって調査者に再び来て欲しいがために、たとえば幼児に胎内の話を聞けるのは一度きりであること(親を喜ばせるために二回目以降は嘘をついちゃうから)と同じように、語り手が創作をしていってしまう可能性もあるんじゃない? わかんないけど、そうした創作も民話の誤差として吸収されているのだろうな。

しかしもうひとつ見逃せない原因は、身近にいるお年寄りの言うことよりも、電波や活字に乗って中央から伝えられてくることのほうが正しいという価値観の問題です。この問題は民話の伝承についてだけでなく、文化のいろいろな面において起きている問題だと思います。伝承されてきた育児の知識、伝承されてきた病気の治療法、薬草の知識、教育や生活上のさまざまな知恵が同じようにして消え去ろうとしています。問題は大きいのですが、せめて民話に関してはひとりひとりの語り手を大事にしたいものです。
村へ入ってお年寄りから民話を聞かせてもらうと、しまいには調査者のほうがお年寄りから感謝されます。老人の話をわざわざ聞きに来てくれて、こんなに長時間じっと聞いてくれてありがとう、と言われるのです。若い女子高生の調査者たちは、まるで孫のようにかわいがられ、ぜひまた来いと言われるのです。お食事をごちそうになり、おふろにまでよばれてもどってくる学生もいます。
 そんなとき思うのです。いなかのお年寄りは変化の早い今の世のなかで、必死になって時流にとり残されまいとして生きているのでしょう。冷蔵庫にも慣れなくてはいけない、ガスストーブの使い方にも慣れなくてはいけない、たくさんのビニール製日用品にも慣れなくてはいけない。そんな生活の中で「ざっとむかし」などというたあいもない話、誰も信じない話をしようものなら、たちまち若い者や幼い者に、「お爺ちゃんの話はうそばなしだ」とやられてしまうでしょう。「ざっとむかし」なんかをいつまでも語ろうとしたらばかにされるのが落ちなのです。先ほど述べたように、幼い孫が絵本をもってきてお爺ちゃんの間違いを正そうとするのですから。(pp34-35)


 スイスの学者マックス・リュティについて。リュティは、ヨーロッパの昔話研究の権威であり、昔話の特徴をまとめた。著者がリュティから聞いた、研究のはじまりの話がおもしろい。

チューリッヒ郊外の丘を散歩しながら、マックス・リュティ自身から聞いたところによりますと、学位論文として、昔話のなかの贈り物(こびとから主人公への魔法の杖、しゃべるたびに口から金貨がとび出るという能力、老人から主人公への忠告などひろい意味での贈り物)に注目して、それが伝説のなかでの贈り物とどのようにちがうかを研究しているうちに、贈り物自体の違いでなく、その扱い方の違いであることがはっきりし、やがてその扱い方(語り口)の分析が昔話全体に及んでこの理論がまとまったということです。贈り物の分析と昔話の様式に関する理論とを学位論文として一体にして発表するつもりだったが、指導教授であるフリードリヒ・ランケとヘルムート・デ・ボアが、様式理論のほうはあまりに大胆なので分離したほうがよいと忠告してくれたので、贈り物についての分析のみを、「昔話と伝説における贈り物」(Die Gabe im Marchen und in der Sage, 1943)の題で学位論文として発表し、様式理論のほうは四年あとで「ヨーロッパの昔話――その形式と本質」(Das europaische Volksmarchen, Form und Wesen, 1947)の題名で独立の理論書として発表したということです。(pp38-39)


 リュティ理論は日本の昔話にも適応するのかどうか。これは、ハリウッドの作劇作法ですべての映画を語ろうとすると無理が出る(あたりまえ)のことと同じだよなあ。

もちろん、リュティ自身が「ヨーロッパの昔話――その形式と本質」のなかではっきりことわっているように、この理論はヨーロッパの昔話と伝説を比較して研究したものであって、ヨーロッパ以外の民族の昔話と伝説については、また独自の研究が必要なのです。民話の研究がいろいろなジャンルにわたっての比較研究と、諸民族の間の比較研究を避けがたく要求している現在、わたしたちアジア人の側からもアジアの民話、特に昔話と伝説について、リュティの理論に対応できる研究がなされなくてはならないのですが、本書ではまず、そのリュティの理論によってヨーロッパの昔話の語り口を分析してみましょう。そうすることによって、まず、ヨーロッパ人が言う「昔話」(メルヒェン)とはどういうものなのかをはっきりさせたい。そのうえでヨーロッパ以外の昔話をみると、共通する部分と異なる部分がはっきりみえてくると思うのです。(pp39-40)


 “共通する部分と異なる部分”と関連して、これは以前、タマフルの「2012/04/02 3/31 サタデーナイトラボ「春の推薦図書特集 feat. F.B.B」【前編】」で柳下毅一郎が語った部分と通じると思う。優れた何かは次の誰かの出発点になるという話。

柳下:確かにヒッチコックの洗練と比べたら、デ・パルマはださいかもしれない。でも、好きだったわけですよやっぱり。「殺しのドレス」とかね。大好きなの。というのがあって、だから、自分が好きなのと、そういったボロクソに言われる部分と、わかるんだけどでも好きだっていうのがあるじゃないですか。で、そこがあって、だから完全に僕ははまりきれなかったっていうか、もちろん蓮實重彦的な映画の見方っていうのは、すごく面白いし、ためになったんですけど、一方で、じゃあ自分は何が好きなんだっていうのを突きつけられるものがあったんですよね。デ・パルマとかを、やっぱり、ジョー・ダンテとかね、ボロクソに言われてたんで当時。
町山:え、ジョー・ダンテはでも蓮實重彦けっこうすごいって。
柳下:いやいやいや、あのね、「グレムリン」のね、雪がどうとかって。
宇多丸:ああ、“雪がなってない”。
町山:あれ綿ですから。
宇多丸:そこで、なんか考え出さざるを得ないっていうふうになって。
町山:ていうかね、だいたい柳下が言ったのだけど、蓮實重彦デ・パルマとスコセッシをめちゃくちゃ叩いたんですよ。あれでだいたい決裂したよね。
柳下:いや、決裂はしないんだけどさあ。
宇多丸:決裂っていうか、僕らのその好きなものとはやっぱ違うっていうか。そのスカーフェイスですよね。
町山:そうそう、だからオヤジをずっと尊敬してたら突然なんかさあ、こういうロックは駄目だって言い始めてけんかするみたいなものなんだよね。くっだらねえ音楽聞いてんじゃねえ、とか言われたりするっていう感じ。
宇多丸:でも不思議なもので、それこそこの「欠席裁判」でもさあ、あれだけど、昔の映画芸術の頃のチョイスは、それこそ町山さんがものすごい個人的に偏愛してるようなものと完全に一致してるじゃないですか。
町山:あ、そう、松田優作とかブルース・リーとかスピルバーグは褒めてるので、でもなぜ、スコセッシとデ・パルマをけなすの? って思うんだよね。
柳下:でもあれだよ、スピルバーグも一回ボロクソに言ってるよね。
町山:最初の頃は褒めてるんだよ。
柳下:いやいや、でも、ていうかそうでもなくて、基本的に、まあそれほど悪くはないよねぐらいの。
町山:そういう言い方だね。(2012/04/02 3/31 サタデーナイトラボ「春の推薦図書特集 feat. F.B.B」【前編】9:00-11:00)


 「世界の民話」に戻り、昔話の実例。「人喰い鬼(悪魔)の心臓は卵の中」グリム一九七番「水晶の玉」について。刺激的なタイトルだが、モチーフはよく耳にする話。世界のどのあたりに分布しているのかがわかる。

AT302「人喰い鬼(悪魔)の心臓は卵の中」グリム一九七番「水晶の玉」
 この話は魔法昔話として最も古い代表的な話のひとつです。中心をなすモティーフ、超自然的存在の心臓(魂、生命)がどこかにかくされているために相手はこの超自然的な者を殺すことができないというモティーフは、紀元前一三世紀の「バータ昔話」とよばれる物語にみられます。
 この話もオリエントとヨーロッパに強く分布しているものですが、北アフリカ、インドにもみられます。また南北アメリカの黒人とインディアンのなかでも伝承されていますし、インドネシア、インド洋のモーリシャスにも、多分フランス人によってもたらされたとみられる類話があります。
 心臓を肉体の外に保存することができるという信仰はわりに近い時期までインド洋では生きており、他方「バータ昔話」としてオリエントでは古い記録があることを考え合わせると、オリエント、もっとせまく言えば小アジアか北シリアあたりが原郷土ではないかという説があります。(pp110-111)


 「人喰い鬼(悪魔)の心臓は卵の中」の型が紹介されている。ざっくりわかる感じ。物語の型、モチーフってこういうふうに整理されているのかと驚いた。

AT302「人喰い鬼(悪魔)の心臓は卵の中」 ライオンやあり、その他に変身できる若者。卵の中にある人喰い鬼の心臓が単独で現れることもある。参照AT665,AT400または425に導入されることもときにはある。
Ⅰ 魔法的援助。主人公は魔法的援助を受ける、
 (a)食べ物を平等に分配してやったことのある動物たちから恩返しとして、
 (b)巨人をだまして魔法の品物をかすめとって、または、
 (c)主人公の動物の義兄弟から。参照AT552
Ⅱ 捕らわれの王女、
 (a)王女が人喰い鬼に連れ去られる。主人公は王女から
 (b)鬼の心臓(魂、生命)がどこにあるか、
 (c)鬼の生命が何と結びついているか、または、
 (d)どうすれば鬼を倒すことができるかを聞いて知る。
Ⅲ 体外にある魂。主人公は指示に従い、人喰い鬼のかくされた魂を発見する。そしてその体外にある魂を破壊することにより人喰い鬼を殺す。(pp168-169)


 分類「笑い話」は落語やアメリカンジョークに近い。

AT1920F「『それはうそだ』と言った者は罰金を払わなければならない」 男たちが、最初に「それはうそだ」と言ったほうが罰金を払う、という賭をする。一方の男が、二番めの男に、罰金の額に等しい額の貸しがあるという話をする。参照AT920C,852(p255)


 同じく「笑い話」から。“愚か者”や“トリックスター”など、整理に伴って要素が抽象化されているのがわかる。

AT1541「長い冬のために」 愚か者「長い冬のために」ソーセージを取っておくように言われた。トリックスターがこれを聞き、自分は「長い冬」という者だと言ってソーセージを受け取る。(p252)


 抽象化に関連して、「ストーリーメーカー 創作のための物語論」(アスキー新書 大塚英志 2008)のキャラクターについての記述を思い出す。ソビエト民俗学者ウラジーミル・プロップは物語の上で果たす役割に注目し、その作用を「機能」と呼んだ。

 このようにプロップはキャラクターの名前や外見にとらわれず、物語の進行に果たす作用のことを「機能」と呼び、それを「物語」を構成する最小単位と考えました。そして、このような「機能」が31個、一定の規則性のもとに結びついたものが「魔法民話」だ、とプロップは結論したのです。
 さてこのプロップの31の「機能」を理解していくには、あらかじめ登場人物の分類が必要になります。名前や外見といった「固有性」を剥ぎ取って、物語の上で果たす役割のみに注目して定義分類したものだと考えて下さい。
「魔法民話」のキャラクターは、ひとまず以下の通りに分類されます。
 ①主人公
 ②偽の主人公
 ③敵対者
 ④贈与者
 ⑤助手
 ⑥王女と王
 ⑦派遣者
 ⑧追跡者(「ストーリーメーカー 創作のための物語論」(アスキー新書 大塚英志 2008)pp48-49)


 「世界の民話」に戻り、昔話の型についての説明。なるほど、そう読むのか。統一しづらいものを資料として整理するためのものなのだな。ちなみに梗概とは物語などのあらすじのこと。

ところで「昔話の型」の各話型についての本文は、ここで読んでいただくとわかるように、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲやら(a)(b)(c)やら(a1)(a2)(a3)などでこまかく区切られています。読みにくいとお感じの読者もおられると思いますので、簡単にこの「昔話の型」のよみ方についてふれておきましょう。
 この「昔話の型」というのは、どこか特定の地方の特定の類話を代表として梗概化したものではなくて、同じ話型と考えられる類話を集めて、それらを分析して、主要な構成部分に分けたもので、それがⅠ、Ⅱ、Ⅲで示されています。このⅠ、Ⅱ、Ⅲで示された部分はエピソード、あるいはモティーフでできています。
 しかしその点については誤解されやすいケースもあります。例えばAT510「シンデレラ」では「Ⅰ しいたげられた主人公」となっていて、一見主人公という人物とエピソードを混同しているようにみえますが、これは「主人公がさまざまにしいたげられる」というエピソードをまとめたいい方と受けとることができます。
 「Ⅱ 魔法の援助」というのは第二のエピソードの性質を述べています。そしてまずこのエピソード全体のことを略述してから、(a)、(b)……としてその具体的な登場者や小道具、そしてその行為が記されています。(a)、(b)……はエピソードのなかの進行順序を示していることもあれば、「または」で結合された選択肢であることもあります。この点は一貫していません。
しかし民話というものの構成は千差万別で、必ずしも統一的に整理できるものではありませんので、これはやむをえないことだと思います。(pp152-153)


 本書「はじめに」から、昔話の型について。本書で扱う話型対応表は、アールネ=トムソンのつくった型の訳だったのか。あと、必要なものを翻訳することを訳出というのか。知らなかった。

それにしても、各国の研究者たちが目下のところ共通のカタログとして使用しているアールネ=トムソンの「昔話の型」は、日本でも近頃はいろいろな民話資料集のなかにその番号のみ記されるようになりましたし、本全集でも各巻の巻末に「話型対応表」があるのですが、日本ではまだ訳本が出版されていません。したがってほとんどの読者の方にとっては、AT400などと書いてあっても、それがどのような話型を示しているのか、見当がつかないと思います。それで第四章では、本全集に出てきた番号のみではありますが、各番号の本文全体を訳出しました。(p2)


 24巻にもなる「世界の民話」シリーズの解説編について、著者は本書の役割を、中心的機能をもつ索引だと定義している。

ところが、これほどひろく世界じゅうの民族の民話をまとめたばあいには、そうやって読みくらべができるということこそ、実は大きな利点だと思うのです。そこで編者は、この大きな企画の意図をはっきりさせ、この全集を読者のみなさんにじゅうぶん活用していただくためには、全巻にわたる索引がぜひとも必要と考えました。この全集のなかで索引のもつ役割は単に付録的なものではなく、この多様なおとぎ話の世界を電話線のようにつなぐ、重要な、中心的機能であると考えたのです。(p1)


 脚本についての基礎知識の補充に、と読んだ。自分の趣味の傾向について意識することがあるが、機能について着目すると傾向を掴みやすくなるのかもしれない。解説編が示す世界の民話シリーズをひとつも読んでいないことが申し訳なくなるほどに、この本は生き生きとしている。

世界の民話〈25〉解説編 (1978年)

世界の民話〈25〉解説編 (1978年)