知らないことを調べるブログ

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「読書」悪魔の話

 「悪魔の話」。ブックオフで購入。現在まで人間は悪魔をどういう位置づけで扱ってきたのか、あと悪魔ってそもそも何、みたいなことが書かれていたらいいなと思って読んだ。
 
 ざっと読むと、現在まで人間は、悪魔に対して奇妙な情熱を持って、離さずにしがみついてきた。恐怖しながらも魅了されている。仲の良い隣人や過去の忌まわしい出来事、自分と異なる考え方を持つ他人など、いたるところに悪魔を見出して、それらを排斥してきた歴史がある。みたいな感じ。
 
 
 著者の池内紀さんは、東京大学文学部の教授を数年やって定年前に辞めちゃった人みたい。子どもがアラブ研究者をやっている。その人の文章が面白い。なんだろう、キレッキレの変わり者だったのかな。
 

家系的な問題というのも微妙でして、要するに「池内紀」の息子だからどうこう、というのだが、その「どうこう」がどうもはっきりしない。はっきりしないのも当然で、池内紀というのはそもそも世間一般ではそんなに有名な人でもないし、有力者でもない。ただ、一部の文学愛好家には愛されているようだ。しかし、その政治的立場がどうなのかというと、最近の膨大な著作を見ても、はっきり言ってわかりません。ユルユル・グズグズなのだ。はい、私にもよくわかりませんあの人の政治志向というものは。
 「池内紀」と関係があるから悪い、という時の関係づけ方の一つは、「親の東大教授のコネで偉くなった」というもの。ありえない。東大文学部教授を数年間やっただけで、しかも定年前に辞めちゃったことで話題になった(不祥事じゃないですよ。筆一本で立ちたい、と言い続けて、本当に辞めちゃったのです。その当時は新聞とかでちょこっと話題になった)人の大学人事への影響力なんて、ゼロ。というか、組織に従わずに辞めちゃう人の息子なんて、疑いの目で持って見られるだけだ。
 ただ、文筆業に傾斜した大学教授の子として育ったことは、私の今のような活動に影響を与えたかといえば、与えているだろう。それを不公平、というのであれば、そうかもしれない。ただ、私のことをコネだと言って非難する人は、誰も私のようになりたいと思ってないでしょ。学閥なしで、偉い先生の下にとどまることなく、派閥を作って子分を作ることもなく、独り立ちして、文筆を通じて自分の説を世に示していく。そういうこと本当にやりたい?やっている人を見たことないよ。
 あと、池内紀が泣いとるぞ、みたいな揶揄はもうどうしようもない。あの人の政治的立場って知っているのかな?知らないでしょう。僕にもわからない。グズグズなんだもの。泣いてるはずないだろ。
 名誉を守るためにいうと、池内紀は昔はすごいキレた。怖かったよ。あっちがキレキレの40代の頃にこちらは物心ついて同居してたんだから、それはすごい怖かったよ。暴力をふるうわけではもちろんないが、ティーネイジャーの頃に、人生の深淵を深く鋭く突くようなセリフを食卓で毎日言われてみろ。ある意味すごい暴力だ。人格歪むよ。被害者は語るだ。できればすくすくと育ちたかった。

池内 恵 - 夜中に論文書きながら、ふとこのブログエントリ見ると、「いいね」が「3万3000」になっていたりして、も... | Facebook

 
 魔女の話題を扱う「理性が眠る時」という章に、こう書いてある。嫌悪は本能でたのしいもので、燃やす側と燃やされる側は交換可能なんだって。
 

(「理性が眠る時」pp93-94)
 ゴヤは「カプリチョス」と名づけた版画連作のなかで魔女たちを描いた。そこにエピグラフをつけている。「理性が眠るとき、妖怪がめざめる」
 より正確にいえば、理性が眠りこむまでもなく妖怪はたえずめざめており、妖怪の威光の前で理性が手もなく眠りこける。そういえば『魔女』の著者ミシュレは「これまでほとんど研究されていないもの」、つまり民衆とその本能の研究より仕事をはじめた人だった。十九世紀ドイツの小さな町の住人のみとかぎらない。もっとも恐れているはずのものを、実はひそかに願っている。
 情報通の現代人は、なるほど、小さな町の住人ではないかもしれないが、しかしながら、小さな住居には住んでいる。そして小さな夢と、変身と解放の願望に苦しみ、誰に対するともしれない嫌悪のトロ火をメラメラと燃やしている。その火が、たのしく焼くべき一人の魔女を求めないはずはない。

 
 
 
 引用しつつ読んでいく。
 
 
 キメラの恐怖。インテリジェントデザインの信仰が薄い僕でも、異種合体に罪深さまでは行かずとも、おぞましい気持ちはある。不気味の谷現象による嫌悪感なのかなと考えてる。
 

(「異種合体のうす気味悪さ」pp12-13)
 中世ヨーロッパの人々が、どんなふうに悪魔を思いえがいたか、同時代の図像が克明に示している。
(中略)
 悪魔のおぞましさ、罪深さを表現する際の定式めいた一つの手法が見てとれる。魚と獣、鳥と爬虫類といったふうに、類や種のちがう生きものを強引に合体させるのだ。ジャンルのちがった生物の部分をとり、組み合わせ、奇妙な雑種として世に送り出す。部分が独立して、異質のもの同士が合わさるとき、人はなぜかうす気味悪さを感じる。生のルールが蹂躙されたように思い、そこに罪深さを覚え、おぞましさに立ちすくみながら、そのくせ怖いもの見たさの好奇心をもかきたてられる。
 悪魔師の永い歳月のなかで、グロテスクに肥大した想像力がはぐくんだ産物である。その以前は、むろんもっと素朴に表現されていた。

 
不気味の谷現象 - Wikipedia
 
 
 醜悪に描かれた悪魔が画家をこらしめる小話。おもしろい。ぷんぷんする気持ちがよくわかる。たとえ悪魔に対しても無法であってはならないのだ。
 

(「前身は天使」pp19-20)
 アナトール・フランスが「画家と悪魔」と題して皮肉な小品を書いている。醜悪な悪魔を描かしては当代一と噂されたアレッツォ生まれの画家が、ひと仕事終えて床についたところ、夜中に天使があらわれた。聖ミカエルのように美しいが、ただ少しばかり色が黒い。自分は悪魔のルシファーだと名のりをあげた。そして、どこで自分を見て、あのようにおぞましい姿で描いたのかと詰問した。画家はふるえながら、自分はこの目で見たわけではなく、ただ罪の醜さをあらわしたまでだと言いわけした。
 悪魔は胸の上に腕を組み、炎のような髪をふりたててこう言った。いかにも自分は傲慢であり、怒りっぽく、野望に燃えていた。その罪は認めよう。
 しかし、天と地の王に対して反旗をひるがえしたとき、はたして勇気が欠けていただろうか。反逆の天使は、しかるべき誇らかな顔と豪胆な姿で描いて当然ではないか。たとえ悪魔に対しても無法であってはならないのだ。いい齢をして、そんなこともわからないのかね」

 
 
 キリスト教会の悪魔観について。悪魔とは、存在そのものの欠如である。つまり、彼らはみずからの自由意志によって存在しないものを求めたから、悪となった。マッドマックスでいうと、フュリオサが悪魔でイモータン・ジョーが全能の神なのだな。
 

(「一元説と二元説」pp30-31)
 一元説によると、悪魔は独立した原理ではなく、神の被造物にほかならない。悪魔やその他の堕天使は、つくられたときは善だったのに高慢から堕落した。悪魔とその配下のデーモンたちは人間を誘惑して神に背かせようとする。善である神から出てくるものはすべて善であり、悪魔といえども神の一部であるからには最後には神に還らざるをえない。これは当然のことながら、諸刃の剣として神の善なることを危うくしかねない。
 悪魔は神から独立した原理だとする「二元説」はどうか。こちらはそれ自体が神の全能性を危うくする。
 多くのキリスト教の教父たちや神秘家、悪魔論の論者たちは、この問題に手を焼いてきた。仮に悪魔を悪に「肉付け」されたものとしよう。ではそもそも悪とは何か。神の欲求から創造されたはずの世界に、どうして悪が存在するのか。
 教父たちは考えた。悪が神から生じることはありえない。なぜなら悪は神と対立するものだから。
 とすると悪は、それ自体が無であって存在そのものの欠如にあたり、部分的な欠乏ということになる。存在するものではなくて存在の影。

 
 
 悪魔との契約書が見つからない理由について。いかにもオカルト的な、根拠の乏しい言い訳が楽しい。ほんとかよというところでは、グランディエの誓いは、信じようと信じまいとのネタになりそうなくらい。たとえばこんな感じ。
 

信じようと信じまいと――。
17世紀フランスの司書ユルバン・グランディエは軽率だった。魔法の文字の契約書を隠し忘れ、
そのため火あぶりの刑に処せられたのである。その契約書には、古い書体で「グランディエの誓い」とあり、
全ての神、教会と祈りを否定し、日に三度悪魔を礼拝して、できるかぎりの悪をなすことを誓っている。
記録保存係は契約書の一枚を刑場に持っていくのを怠ったらしく、フランス国立図書館にそれが残されているという。

 

(「契約は二十年」p42)
「悪魔に魂を売りわたした人」の話はどっさりあるのに、その際とりかわされたはずの契約書が一向に見つからないのはどうしてか。
 借家や出版物の契約とはちがうのだ。教会の目を恐れなくてはならない。それ以上に隣人の目が恐ろしい。というのは契約書には、神や精霊を放棄する旨の誓いが入っている。教会を否認している。テーブルや家具の上に出しっぱなしにしておいてよかろうはずがない。それにだいいち、契約書は悪魔が地獄に持ち去っていくものだから、地上にのこりにくい。
 十七世紀フランスの司祭ユルバン・グランディエは軽率だった。「魔法の文字の契約書」を隠し忘れ、そのため火あぶりの刑に処せられた。記録保存係は契約書の一枚を刑場に持っていくのを怠ったらしく、フランス国立図書館にそれが残されている。ジヴリが自著に引いているところだが、いかにも古い書体で「グランディエの誓い」とあり、今よりすべての神、イエス・キリスト、マリア、天の聖霊、また教会と祈りをすべて否定し、加えて日に三度、悪魔を礼拝して、できるかぎりの悪をなすことを誓っている。

 
 
 ダンテ『神曲』の「天国篇」を引き合いに出して、天使と悪魔の材質について解説するところ。材質なんて考えたことなかったな。なるほど闇と光か。この前提が、後述する黒と白のイメージへ結びついていく。
 
 死の観念や恐ろしいものは忘れがちなので、意識的に手に取る必要があると思ってる。でも、それがホラー映画をよく見る理由なんですと、ホラー映画きもいとか言う人に向けて説明すると、嘘つけ好きなだけだろと言われた。そうです。なので最近は理屈を捨ててホラーを楽しんでる。
 

(「天使語と悪魔語」pp56-58)
 天使の「材質」について、そろそろ断言してよいだろう。つまり、光である。
(中略)
 「天国篇」では、いかにもこまごまと焔や炎の色合いが語られている。それがまさしく「天使語」であるからだ。光を材質とする天使たちは、光の色を微妙に変化させて語り合う。灯台の光の点滅のようで、いささか幼稚な構造ではあるが、その表現力において、複雑なわりに無能な、ことごとに誤解ばかりひきおこす「人間語」よりも、はるかにまさるものであるらしい。
 天使が判明したからには、悪魔についても断定していいだろう。
 闇である。悪魔の全身は闇より成り立っている。
(中略)
 闇の中には何がいただろう? そこにはあきらかに死者がいた。見えない死者の群れがいた。
(中略)
 闇を駆逐した。ついては私たちは、同時に何もかも喪失したのではあるまいか。ひそかに生者を見はっていた死者の群れ。死の観念を失った。死にいたしまずして、どうして生を尊重できるだろう。

 
 
 黒と白について。この本を読むまで、悪魔と天使に、黒人と白人のイメージを当てはめる考えがあると考えたことが実は無かった。うそでしょ、こんなところまでその偏見を「僕も」持ってたの、という感じ。偏見を自覚することは、うんざりするけれど、自らがより精細になれるので、自分がわからないことの息苦しさから少しずつ脱出できる方法だと思ってる。なんか変な言い回しだな。まあいいか
 
 花嫁衣装が、1920年代以前のアメリカでは似合う色ならなんでもよく、婚礼の後もとっておきのドレスとして使われた、というのが驚く。とっておきのドレスってなんか好印象。特別なことに用いたものが、思い入れで強化されて、そのあとも大事に使っていくのってなんか良いなあ。
 
 それから、かっこいい黒い人物の例をひとつも僕読んだことない。こういうときすぐにイメージできると楽しそう。読む。
 

(「黒のもつイメージ」「白というフィクション」pp62-65)
 本名藤村大造、探偵名が多羅尾伴内。イキなソフトに黒の背広姿で風のように現れた。
 西欧のヒーローもまた、しばしば黒い男としてやってきた。ルイ・ジューヴェが演じたドン・ファンも、ローレンス・オリヴィエ扮するハムレットも、黒ずくめの人物として圧倒的な印象を刻みこんだ。シャーロック・ホームズも、メグレ警部も、デュパンも、影絵のような黒い姿で残されている。
(中略)
 白人と黒人の問題が厄介なのは、肌の色による人種的偏見にとどまらず、白と黒にかかわって、より大きな意味合いのイメージの歴史とかさなり合っているからにちがいない。つまりは名指しこそされないにせよ、背後に天使と悪魔がひそんでいる。
(中略)
 ある聡明なアメリカの女性が書いている。
「このピンクがかった肌の色をした人々こそ、みずからを<白>人種と規定し、さまざまな度合いの茶色や金色がかった肌の人々を<黒>人種と決めつけるという誤謬をおかした張本人である。この意味論上の手品がどんな結果をもたらしたかというと、ピンクがかった肌は、美徳と清潔さ、茶や金色の肌は、悪と汚れと危険を意味する、という連想である」(アリソン・シェリー、木幡和枝訳『衣服の記号論』)
(中略)
 今日すっかりおなじみの白い花嫁衣装にしても、ようやく二十世紀の産物である。これについてはピゼツキー女史がイタリアの例で述べているが、リュリー女史のいうアメリカの場合でみると、一九二〇年代以前は、花嫁は自分に似合う色なら何でもよく、新品のイブニング・ドレスでありさえすればよかった。白はもとより、ピンク、黄色、ブルー、グリーンと何色でも可。婚礼のあともずっとそのドレスは彼女のとっておきのパーティ・ドレスとして使われた。

 
 
 この本の中頃では、魔女狩りについての記述が多くなる。魔女狩りとは、目的を持っておこなわれるものらしい。対象はやっぱり女性が多い。特に弱者が標的になったみたい。現在よりもさらに弱い立場に女性が押し込められていたのかなと想像。もちろん、性別はこじつけであり、テンプル騎士団の例にもある通り、悪魔として取り捨てられることは誰にでも起こりうる。超怖い。「人間性の埒外におく」って、そんな凶悪なことないよな。ルシファーと画家の小話が面白いのは、こういう凶悪さを自覚させてくれるからだと思う。
 

(「テンプル騎士団の「犯罪」」「無から有は生じない」pp101-105)
 一三〇六年七月、国内のユダヤ人を逮捕し、財産を没収した。翌年十月早朝、フランス各地のテンプル騎士団員を王室の名において逮捕し、直ちに審問にかけた。
 騎士団員逮捕の命令書は、すでに九月に作成され、国王の名において王国内のいたるところに発送されていた。コーンによれば、それは「人間性を抹殺する言葉づかいの一つの見本」であり、一つ一つの言葉が、まさしく相手を「人間性の埒外におく」ために選ばれているという。
(中略)
 魔女裁判においてステレオタイプ化したものが、前代のテンプル騎士団自体にすでに、おおよそ出そろっていたのである。
(中略)
 ある種の不幸が起こる。病いや事故、不作や嵐、あるいは乳牛が思うほどの乳を出さない、といったことかもしれない。しかし、決定的なことは、不幸そのものではないだろう。むしろその際に、「特定の個々人」が、自分たちだけが狙われて災難にあったと感じるところの感情だ。少なくとも魔女狩りのはじまりは、特定の個人をみまった「予期せざる不幸」という特徴を持っている。
 誰に魔女の役割が押し付けられたか?
 圧倒的に女性が多い。それもある特性をもった女たち――ひとり暮らしの女、変わり者といわれるタイプ、あるいは気むずかし屋。赤い目をしていたり、腰や背中が曲がっていたりすると、とくに目をつけられた。

 
 
 ヘンゼルとグレーテル強盗説はよく聞くけれど、ファシズムと結びつけた言説は初めて。ここでいうファシズムとは、自分たちとそれ以外を区別して、自分たちしか認めないし、生きていてはならないのだ、という考えを指すみたい。ファシズムってそんな感じなのか。
 
 そういえば以前、前衛革命家の外山恒一さんと会って話を聞いたときに、ファシズムと、アナキズムと、中華思想について、ざっくり教えてもらったんだけど、僕があほすぎて理解に苦しんだ。思想って理解するのがむずかしい。
 
 そのとき、他の人と話してて、狭義のグローバリズムが現在では権威ってことと、構造的暴力の概念のことを知った。狭義のグローバリズムとは、多様化としばしば相反する思想のこと。構造的暴力とは、社会の中で構造化されている、行為者を特定しにくい不平等のこと。
 
 ヘンゼルとグレーテルを、ドイツの政治学者イリング・フェッチャーが「前ファシズム的大虐殺物語」として捉えるときの恐怖って、現在のグローバリズムと構造的暴力のことと同じだよねと思う。権威と排斥って捉えるとわかりやすい。ただ、これは事象の矮小化かもしれないので、理解のアップデートが頻繁に必要な話題なのだろうな。
 

(「グリム童話の中のファシズム」pp108-109)
 これについてはドイツの政治学者イリング・フェッチャーが、おもしろい解釈をしている。たのしく、パロディ風にグリム童話を語ったフェッチャーの『だれが、いばら姫を起こしたのか』(岡澤静也訳・筑摩書房)によると、ヘンゼルとグレーテルは、「前ファシズム的大虐殺物語」であって、まさにこの二十世紀に現実となったものの原型が示されている。すなわち、ヘンゼルとグレーテルの両親である貧乏な木こりは、生産過程の変化によって生じた大量の失業者にあたり、彼らは日々のパンが手に入らなくなったとき、わが子を森のなかに置き去りにした。強者が生きのびるために弱者が死ななくてはならないからだ。両親ばかりでなく、ヘンゼルとグレーテルも同様である。森に住んでいる老女を魔女だときめつけ、無条件に殺してもよいと考えた。
(中略)
 村人たちは、たとえば旅廻りのジプシーを魔女だと言いそやして、村境いから入れようとはしなかった。ひとり住まいで少し変わり者の女性に魔女だという噂をたてて、何かにつけてのけ者にしてきた。村という共同体の中では、自分たちと違ったふうに生きる生き方があってはならない。自分たちとは違った人間が、この世にいてはならないのだ。

 
 
 16世紀ごろ、オカルトブームとともに錬金術が流行ったらしい。錬金術のおこりも書かれてる。古代エジプトが始まりだったのか。
 
 オカルト好きの王様の褒美を求めて山師が集まったという話を読んで、ドラクエ4に出てきた「私を笑わせたものには天空の兜をやろう」っていう王様を連想。ああいうおもしろおじさんは実際に存在したんだなあ。
 

(「謎めいた国王、ルドルフ二世」「悪魔とまじわる皇帝」「国王のひそかな楽しみ」pp128-134)
 むかし、プラハに「不思議博物館」と呼ばれるものがあった。主として十六世紀の後半に国王ルドルフ二世が集めたコレクションである。当時、プラハボヘミア王国の首都だった。
(中略)
 ボヘミア国王ルドルフ二世の名前が後世に残ったのは、何よりも錬金術との関係によってである。
(中略)
 錬金術そのものは古代エジプトにおこり、アラビアをへてヨーロッパに伝わった。長い伝統をもつ魅力ある学問である。科学よりも、むしろ哲学――自然哲学に属するものだろう。先ほど述べたように錬金術士の工房はラボラトリウムと呼ばれたが、これは「礼拝堂」を意味するオラトリウムと同じ語源をもつ。ともに「浄化」の場所であって、一方は変哲のない物体を浄化して金を生み出す。他方は魂を浄化する。
 ルドルフ二世の在位中にプラハにやってきた錬金術士たちの中には、マルティン・ルーラントといった折り紙つきの学者もいたが、大半は多少ともうさんくさい連中であったようである。悪名を馳せた者もいれば、きわめつきの山師もいた。

 
 
 他人に悪魔を見てしまう狂人の話。「お前は悪魔だ!」と、「お前たちは悪魔になってしまったのか?」では、どちらも怯えから来ているものの、ずいぶんと印象が異なる。
 
 ゾンビ映画で、親類がゾンビとして蘇ってしまうシーンは、とても感情を揺さぶる。「お前たちは悪魔になってしまったのか?」は、他人が変わってしまう恐怖と、他人の変化(成長と言いかえてもいい)を受け入れたくない傲慢さが、表裏一体になっているんだな。
 

(「教会の中にも悪魔がいる」「悪魔の家」pp139-142)
 数ある悪魔見聞記のなかでもなかんずくの珍品は「シャルル・ベルビギエ氏の自伝」として知られるものだろう。正確には『妖怪、つまりすべての悪魔が他の世界の者とは限らない』と題して、一八二一年、パリで刊行。
(中略)
 正式にはアレクサンドル=ヴァンサン=シャルル・ベルビギエはカンパントラ生まれの資産家で、一七九六年に故郷を離れてアヴィニョンに落ちつき、ついでパリへ出た。大革命後のパリである。ギロチンが大車輪で働きつづけ、数知れない首が落ちた。
(中略)
 この人にとっては、悪魔はついぞ「他の世界の者」ではなかったからだ。当人が述べているところによると、パリの呪術師で妖術師のモローはベルゼブスの代理、サルペトリエール病院の医者ピネル先生はサタンの代理、アヴィニョンの医師ニコラはモロクの代理、薬屋の長男のプリエールはリリスの代理というわけだった。
(中略)
 めまぐるしく変化する世の中が、この資産ある傍観者には百鬼夜行と見えたのか。それとも、しょせんは哀れな病者の記録なのか。あるいは狂人の頭に宿った夢だったのか? いずれにせよ、この三巻の書物ほど意外で、しかも正確なものはない、とジヴリは述べている。批判はさしひかえたいと言うのだ。
 「読者ご自身でその狂おしい……悪魔に憑かれた千二百項を読み通されるようおすすめする」

 
 
 神々が悪魔として扱われていく話。こういう化け物の話になると、いつも出てくるのが柳田国男
 
 ハイネの解説をしている小沢俊夫さんって、どこかで聞いたことのある名前だと思ったら、以前このブログで扱った「世界の民話 解説編」の著者だった。物語の類型についてわかりやすく解説した本だった。面白い語り口の人。「悪魔の話」を読んでいて伝わってくるハイネの人柄って、小沢俊夫さんの紹介によるところが多いのかなと想像。
 

(「ハイネと柳田国男」「神々の衰頽」pp152-155)
 柳田国男の『山島民譚集』は、数あるその著作のなかで、もっとも地味な一つだろう。大正の初めに五百部だけ作って知人や友人にくばった。
(中略)
 一見のところ、およそ海のものとも山のものとも知れない方々たる言い伝えや見聞記、古文書からの抜粋である。さまざまな断章や切れはしを集めて、それを敏感な指先でさぐるようにして選り分け、水の神の童子が奇妙な妖怪に落ちぶれていった道筋をたどっていった。それはまさしく、ハイネが『流刑の神々』で語っている、ゲルマンの神々が悪魔へと零落させられた道筋とそっくりである。キリスト教に追われ、追いつめられ、怖さ半分、おかしさ半分の悪魔や悪霊へと落ちぶれていった。
 同じ二つの流刑譚だが、なんとその語り口の違うことだろう。小沢俊夫氏の解説によると、ハイネは『精霊物語』の執筆にあたり、出版社に「貴重な、世界中のひとに喜んでもらえるような本」を書くつもりだと伝えた。「それはたのしい内容の本で、世界中のどんな検閲官でも文句のいいようがないでしょう」

 
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 無毒化と悪魔祓いについて。なるほど悪魔祓いとは無毒化である。文中にある“奇妙な非現実感”と“超然とした立場に移されてしまう”って怖すぎ。まさにその通りだと思う。思考停止に自覚症状が伴わない話だよね。
 

(「さまざまな悪魔祓い」pp186-188)
 魔よけ、あるいは悪魔祓いは、たえず装いあらたにあらわれる。それはブローチやメダル、お札、お祓いといったものばかりとはかぎらない。すこぶる巧妙な言辞としての悪魔祓いがないだろうか。サユル・フリードレンダーが『ナチズムの美学』(田中正人訳・社会思想社)のなかで、「悪魔祓いの諸形態」と題して述べている。現実に直面することなく、「過去の無毒化」をはかって、掩蔽ないし回避することの悪魔祓い。
(中略)
 彼はこれを「無意識な悪魔祓い」と呼んだ。ある歴史家の歴史書にあるくだり。
「オストラント帝国全権委員府に向けて、とりわけリガ、ミンスク、およびコフノに送られた数便のユダヤ人は、その後の便の大多数とは違って、地方ゲットーやキャンプを指定されなかった。これらのユダヤ人は(A)、周辺ユダヤ人と同時に、到着とともに銃殺された(B)。……労働不可能な人びとすべて(とりわけ女・子ども)がゲットーから一掃されねばならず(A)、ヒエウムノに送られて毒ガスで殺された(B)」
 AとBのフレーズ、前半と後半とのあいだの「まったくの不釣合い」によって、奇妙な非現実感が生じてこないだろうか。前半はごくふつうの行政措置にわたり、まさしくそれに応じた書き方で語られ、ごく当然の行政措置的な帰結を予想させる。では、つづいて何が述べられたか? 恐るべき大量殺人が述べられた。しかし文体はなんら変化していないし、また変化し得ないのだ。いわば当然の行政措置としての大量殺人が叙述され、官僚的に平然とつづいていく。そのため、議論全体が「無毒化」されて、読者は大量虐殺の管理者という超然とした立場に移されてしまう。客観的、あるいは公正と称する学術的言語の陥穽だろう。

 
 
 ほんと奇妙な情熱だよな。よほど魅惑的なんだろう。やっぱり悪魔の話だとキリスト教圏での禁欲的な世界の例が多くを占めているけど、決して人事ではないよな。だってホラー映画や恐怖への興味は、僕にとっても奇妙な情熱としか言えない。特に、いたるところに悪魔がいるのに、普段は見えないようになっている、というのが大きいよなと思う。
 

(「禁止された闇の王たちの肖像」pp192-193)
 不思議な話である。あれほど理性をたっとぶ人々が、幾世代にもわたり、何百年となく、日曜日ごとに聖堂に来て、これらの悪魔たちを眺めつづけた。好んで刻みつけ、さまざまな意味を与え、恐れつつ、かつはいとおしんできた。おもえば奇妙な情熱と言わなくてはならない。
(中略)
 ラテン語でいえば二語でたりる。ウビクエ・ダエモン、つまり「いたるところに悪魔がいる」。少なくともそんなふうに永らく人々は信じてきた。

 
 
 
 いたるところに悪魔がいて、我々と悪魔は相互に交換可能であるっていう主張は、ぜんぜん異を挟むところがない。あと、無毒化と悪魔祓いを関連付けて考えることは今までしたことがなかった。面白い指摘だなあと思う。言葉の定義付けに敏感になるという意味で、網野善彦の「歴史を考えるヒント」や、小沢俊夫の「世界の民話 解説編」の読後感と似たところがある。何度か読み返して、あれこれ考えながら反芻するのが楽しい本だった。
 
hokanoko.hatenablog.com
 

悪魔の話 (講談社現代新書)

悪魔の話 (講談社現代新書)