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知らないことを調べるブログ

映画の分からないところを調べてまとめる場所にしていきます。

読書「新しい時代の教職入門 改訂版」

 教員免許がほしいなと思う。ので読む。この本について、前書きにこう書かれている。
 

本書の目的
本書は、教育職員免許法施行規則にある「教職の意義等に関する科目」のテキストです。

 
 そういう本。

 読んでいく。
 
 
 
 教師の数について。割合で表されると驚く。たくさんいる。それほどに、人員が必要な職業なのだろう。
 

日本の小・中・高等学校等に勤務する教師の数は、現在約110万人です(小学校41万6475人、中学校25万3832人、高等学校23万5306人、中等教育学校2432人、幼稚園11万1059人、特別支援学校7万9280人:「学校基本調査」2014年5月1日調べ)。総人口の100人に0.8人、成人人口の約50人に1人が教師という計算になります。(p2)

 
 
 教師に求められている資質について。絶えざる刷新が必要である、とわざわざ言うということは、刷新しなくなってしまう傾向があるということなのだろうか。たぶん、対応しているのは閉鎖性について言及した箇所だと思う。
 

知識・技能の絶えざる刷新が必要であることから、教員が探求力を持ち、学び続ける存在であることが不可欠である(「学び続ける教員像」の確立)。
(中略)
職場の構造上、空間として他者の仕事を見る機会の少ない閉鎖性から、教師が学級王国を形成し、自分の力を過信して保守傾向に走る危険性もまた兼ね備えているといえます。(pp3-5)

 
 
 評価者としての教師について。“優れた点を見出し、その子らしい行動に意味を与える”、というのは良いなあ。そして、それよりも重要かつ恐ろしいのは、“引き裂いたり”のところだ。こういう役割のことを、アンカーポイントと呼ぶのか。
 

友達からも「うすのろ」や「とんま」とラベルを貼られ、のけものにされていきます。このつらい状況の中で、、ちびは嫌なものを見ないようにしているうちに藪睨みになっていきます。しかし、小6のときに転任してきた磯部先生は、これまでの教師とは違っていました。子どもたちをつれて戸外に行く中で、磯部先生はちびが自然に関するさまざまな事柄を実によく知っていることを見出していきます。
(中略)
一人の教師が学業に限らず子どもの優れた点を見出し、その子らしい行動に意味を与えることで、周囲の人との関係が変わり、子供が生き生きと生きていく様は、時代を越え国境を越え訴えかけるものだといえるでしょう。現在も版を重ねているのがその証拠です。教師は人と人をつないだり引き裂いたり、子どもをめぐる人々のまなざしをつくりだす重要なアンカーポイント(投錨点)であるのです。(p19)

 
 
 議論の補佐役としての教師の役割について。重要なことが書かれている気がする。特に、“発話の成否を断じたり”しない、というところが「あっ」と思った。
 
 たとえば、ウミガメみたいなゲームの場合は、発言もとい質問の成否を「そう! その質問を待っていた!」とやりがちだ。僕が。ウミガメでは“当てろ問題”という別の概念が存在するけれど、それとは別の話。
 
 授業においてもそれをやってしまうと、教師が待ち望んでいる発話、あるいは喜びそうな発話を当てるゲームになってしまう、ということがたぶんここで指摘されている。と思う。そういう授業は望ましくないということか。
 

ここでさらに注目したいのは、教師が隆太の発話を復唱しながらやりとりを続けていることです。ここでいう復唱は単純な繰り返しということだけではなく、ことばを補って言い換えたり、要約したり、一人の子どものつぶやきを拡声して学級全体に伝えることも含んでいます(藤江[2000])。
(中略)
誰のどの発話を復唱したのかという行為自体が、学級に向けて教師の意図を暗黙的に示しています。また、子どもの発話の成否を断じたり、「ほかにありませんか」と拙速に発話を促すことなく、教師自身がその発話を吟味することが、結果として子どもの発話を促しているといえます。教師は、復唱することによってコミュニケーションを「つなぐ」役割を担っています。(p41)

 
 
 金八先生のイメージについて。金八先生のドラマは、僕はなんとなく嫌いなので見たことがない。でも、そのイメージは、ここで言われているとおり、若き金八に対するものだな。これは明らかな偏見だ。一度見てもよいかもしれない。でも全8作か。長いな。
 

共感派は、時に厳しく時に優しく、いつも全身全霊で問題状況を受け止めてくれ、時には学校を向こうに回してでも生徒を守ってくれる頼りがいのある理想の教師ととらえています。批判派は、自分の信念に基づき常に主導的であろうとし、時として生徒の心の内面にまで入り込んでいこうとするのは越権行為であるし、それを理想とするならば、教師も生徒もともにストレスを抱え疲弊してしまうのではないか、と指摘します。この議論はドラマで描かれている金八のふるまいの是非だけではなく、教師と生徒の関係のとり方や教師の役割や職責についての見解の相違に基づいています。
 なお、議論の対象となっている「金八先生」に対するイメージは若き金八の姿であるようです。(p46)

 
 
 やり取りの素晴らしさや教育的鑑識力かあ。オレないなあ、たぶん。ほしい。悪魔(不断の努力)と血の契約を結べば手に入るのだろうな。
 

同僚との授業研究を中心とした協同的な場には「開眼の働き」(清水[2002])があるのです。たとえば、授業における先輩教師の子どもとのやり取りの素晴らしさの背後にある綿密な教材研究に魅せられたり、自分が授業中の子どもの姿をいかに見取っていなかったかを指摘されることで他の教師たちの「教育的鑑識力」をみせつけられたりします。授業研究の過程で教師は己の力量の至らなさを痛感する一方で、明日からの授業の指針を得ることができるのです。(p68)

 
 
 カリキュラムの概念について。えっ意味がわからない。カリキュラムって、先立って作成する計画ではないのか。と思った。どういうことだろう。計画を実行に移す際に、その結果がどうだったかを書き加えていくということだろうか? もしそうなら、スケジュール帳と同じ感じだ。そういうのならわかる。でも、カリキュラムをそういうふうに考えたことがなかった。
 
 (この理解は誤りだった。ということが後(p136)にわかる)
 

教師の仕事を中核に設定した場合、実践的により重要なのは「学びの経験の総体」としてのカリキュラムです。この意味におけるカリキュラムは、教師の授業や子どもの学びやその評価も含む包括的な概念です。一般に「カリキュラム」というと、授業や学びに先立って作成された「計画」と認識されがちですが、「学びの経験の総体」としてのカリキュラムは、教室における授業や学びの創造と一体であり、年度始めの4月に作成されるのではなく、年度の終わりの3月に完成されるものとして認識すべきです。(p73)

 
 
 小学校4年生の総合学習での事例について。この事例がとてもおもしろい。おもしろいんだけれど、途中にひどい箇所がある。“普段一人で友達と交わることの少ない達夫(以下子供の名前は仮名)が、いつもうつむいて歩いているからでしょうか、学童保育所の横のドブ川でヤゴが集団で羽化しているのを発見します”ってひどくないか。鼻で笑われているような感覚を覚える。がっかり思う。ちょっと……どうなのそれ。冗談にしても寒い。ユーモアになっていない。差別や偏見にもとづいた冗談やユーモアは、もっと上手に扱う必要がある。
 
 この文章の何がいけないのかというと、それは、友達と交わることの少ないことと、いつもうつむいて歩いていることと、ドブ川の異変に気がつくことが、まるで因果関係があるかのように並べて述べられているところだ。当たり前だけれど、すべて関係がない。もう。まじ激おこなんですけど。たぶん、僕がいつもうつむいて歩いているタイプの子どもだったから、防衛反応でびくっとしてしまっただけなんだろうけど……。まさか、教職入門の教科書でそういう目線をくらうとは思わなかった。
 
 紹介されている総合学習での事例が面白いだけに、残念でならない。
 
 この章を執筆したのは佐藤学という人だ。僕はこの人が嫌いだ。ということを覚えておこう(この佐藤学という人は同書の第11章も執筆している。僕はそこでも残念な気持ちにさせられている(pp238-240))。
 

 4月の最初の授業で一見さんは学校の湧き水を子どもたちに観察させるところから単元をスタートさせました。ところが、子どもたちは湧き水にはさほど関心を示さず、湧き水のそばで見つけたヤゴに興味を抱き、「羽化させて何トンボか調べてみたい」といいます。その2週間後、普段一人で友達と交わることの少ない達夫(以下子供の名前は仮名)が、いつもうつむいて歩いているからでしょうか、学童保育所の横のドブ川でヤゴが集団で羽化しているのを発見します。(p75)

 
 
 子どもたちの学びが表層的に終わってしまうことへの対策。そのとおりだなと思った。受け手の学びを豊かに発展させることが目標。その場合は、話し手が用意した筋道へと適度に導くことが重要になるのか。へえ。
 
 スティーブ・ジョブズの逸話で前に聞いた話と似ている。なんか、ユーザーから欲しいと言われたものを作っているのでは遅い、こちらが先に用意するのだ、みたいなやつ。こういうのをトップダウン型と言うの? それは組織の命令系統の話か。
 

4月当初に、一見さんが「湧き水」の単元に固執し、子どもの興味や関心の「ヤゴ」を即座に採用しなかったのは、子どもの興味におもねって単元を構成したのでは学びが表層的に終わることを熟知していたからです。教師自身の学びのデザインによって単元のビジョンを確かなものにすることは、子どもの学びを豊かに発展させる基礎要件です。(p80)

 
 
 心と言葉がずれてしまうことについて。最近つよく関心のあること。心と言葉のずれ、とは良い表現だと思った。上手く言葉に出来ているなあ。とても重要な指摘だ。
 
 心と言葉のずれが起きてしまう原因を、思春期と、言葉そのものを持たない、と考察していて納得。文章の締めもおおいに納得。
 

いくら言葉として語られても、心と言葉がずれていたり、建前に隠されて本音がみえないということも少なくありません。特に、思春期にさしかかった子どもたちの言葉は微妙に揺れ動きます。思春期というのは、子どもから大人にさしかかる過渡期であり、自立心の裏返しである反抗心が頭をもたげてくる頃でもあります。
(中略)
子どもが言葉にしない第2の理由としては、微妙な心の襞まで表現する言葉そのものをもたないということがあります。「わかってほしいのに、共有できる言葉がみつからない……」。意固地に口を閉ざしているように見えても、実はそういうもどかしい思いを抱えていることも多いものです。
(中略)
言葉できちんと気持ちを伝えることの大切さを、まずは大人の側から実行することが求められるでしょう。(pp92-93)

 
 
 レッテルで人を判断してはいけないという話。さっきの、うつむいた子どもという偏見についての話題と対応している。
 
 ただ、ここではレッテル貼りが“間違っていた場合、子どもたちが受ける心の傷は相当に深いものです”とある。けれど、正しい場合であっても、同様に子どもたちが受ける心の傷は相当に深い。なぜなら偏見だから。当たり前だ。
 
 とはいえ、ひとつの本の中で、過ちと叱責が共存しているのは興味深いな。マッチポンプとも言える。執筆者が複数いる場合はこういうことが起こるのだな。対立する視点を同時に摂取できて、お得だなと思う。
 

現在の状況だけで子どもを見限ったり、1回の過ちだけで子供の将来にレッテルを貼るような危険は回避できるでしょう。ふだんから逸脱行動の多い子どもたちの場合、(実際に叱られるようなことをよくするため)教師にも注目されることが多いものです。そんな子どもたちを最も傷つける言葉が、教師による「またお前らか」という叱責だといいます。「ふだんの行いから考えると、今度もきっとあの子たちだろう」、そんな軽い類推から出た言葉でしょうが、それが間違っていた場合、子どもたちが受ける心の傷は相当に深いものです。「先生は、どうせ自分たちを信じちゃいない」「これじゃ、改心しても無駄じゃないか」と、教師不信を強め、自暴自棄を起こすことにもなりかねません。子どもと直接関わる大人には、過去のできごとからすべてを決めつけるのではなく、子供の成長可能性や可塑性を信じる姿勢が必要です。子どもは日々成長し、ダイナミックに変化していく存在なのです。(p95)

 
 
 教師と生徒は体力的にも権力的にも対等ではないという話。本当にそうだなと思う。
 
 昔、実体験で、使用者と労働者の立場において、使用者から、「我々は対等だ」と発言されたことがある。その時の違和感がここでも指摘されている。溝とはそういうものなんだよな。とても腑に落ちる説明だった。
 
 かつ、「支配の構造」とは非常に恐ろしいな。教職において顕著なのだろうが、それ以外の場面でも生まれうる構造なのだと思う。こわい。
 

「評価する立場」と「評価される立場」という上下関係(力の不均衡を伴う関係)による縛りがあります。教師は子どもにとって、完全に対等ではありません。体力的にも権力的にも、教師のほうが「上」に立っているのです。人は誰しも、自分を評価する者に、自らの弱い部分や醜い部分を語ることに抵抗をかんじるものです。教師というだけで、子どもとの間に溝が存在しているといってもよいでしょう。その溝を埋めることは容易なことではありません。
(中略)
「子どものために」「自分のクラスの子だから」という名目で子どもを支配し、場合によっては、心のなかにまで土足で踏み込むような対応に陥る危険性もあります。これは、「支配の構造」という落とし穴です。カウンセリングは「契約」という枠で守られているからこそ、安心して自分をさらけだすこともできるのです。「支配の構造」は、教師-生徒関係の中で無理にカウンセリング関係をつくろうとする際に陥りやすい落とし穴といえます。(pp97-98)

 
 
 カウンセリングが危険な作業である話。たいへんわかる。マリリン・モンローはそれで亡くなった。
 

時間的にも空間的にも守りのない中で、心の深い部分に触れることは危険な作業です。(p99-100)

 
hokanoko.hatenablog.com
 
 
 「~ではなく本当の~」、というレトリックは、筆者の考えが曖昧であるときにあらわれる。伝えたい事があるのなら、できるかぎり正確に言葉にあらわす努力をしてほしい。
 

ただし、教師が子どもたちに等身大の自分自身をさらすというのは、勇気のいることです。素のままの自分で大丈夫、そんな自信も必要でしょう。その勇気や自信の欠如が、子どもの前で虚勢を張ったり、子どもに対して空疎な権威を振りかざしたりという堅い殻をつくってしまうことにもつながります。鎧に変わる本当の勇気と自信を身につけることが、生身の教師には必要であるといえるでしょう。(p103)

 
 
 育児を通して価値観が変わったという人の体験談。ところが、この人は結局、価値観が変わっていないなと思う。
 
 子供は損だと思っていたら、得でした。だって。はァん。ばっかじゃないの。結局、子供は損得を生む何かであるという考えが変わっていないではないか。自己中心的だなあ。人のことを“糧”だなんて言い表す。はたしてこの人とはまともな対話が成立するのだろうか? と疑う。
 

東京の高校教師である北川すみれさんは、子育てを通した格闘と、そこから得た自らの世界の広がりを次のように記しています。
 子どもが小さい頃、仕事をする上で、子供はハンディとばかり思っていた。しかし、職場でも地域でも、わが子のおかげで仲間がふえ、自分の場を拡げる豊かな“財産”を形成する糧となっている。わが子とていねいに関わることで社会の諸問題が見えてくる(同前書、150頁)
 もちろん、北川さんがこうした見方に到達するまでには、大いなる葛藤がありました。しかし、育児を通して人々とのつながりを育てていった経験は、生きた知識を生み出し、他者との関わり方、社会の見方を育て、教師としての成長を準備したのです。(p124)

 
 
 文章を綴ることで自己を保とうとする話。とても面白い。文章を書いて誰かに読ませることが、自分自身の壁と向き合うための力になるというのは、勇気のもらえる話だな。と思う理由は、僕がブログを更新していることとシンクロしたように思えたから。
 

前島さんは教頭職に就くことになったのです。
(中略)
前島さんは、さまざまな用事に追われる中で、授業を見る目、教育をとらえる目が甘くなっている自分自身に気づいたといいます。本来ならばより高度な専門性を求められているはずの管理職に就くことが、逆説的にこれまで育ててきた教師としての専門性の喪失に繋がるという危機感を持った前島さんは、教頭通信を書くという課題を自らに課しました。この教頭通信には、詩・短歌・俳句などのイメージと解釈、さらには自分の少年時代などが綴られ、5年半の間に350枚も発行されています。教頭通信は、教師たちの間で読まれ、職員室の話題にも少しずつ影響をあたえるようになったといいます。教頭通信という授業における教材研究に類する実践を継続することで、前島さんは、これまでの教職生活で大事に育んできた、授業を通して子どもたちの学びを支えるという教職アイデンティティを失わないように務めたのです。そして、学校全体をとらえる管理職としてのアイデンティティとの両輪の上に、新たな教師としての自己を据えたのです。
 前島さんが新任期から大切にしてきた思いを文章として綴るという方法を、自分自身の壁と向き合う時に用いたというのも、興味深いことです。(pp126-127)

 
 
 『北の国から』の「涼子先生」、と題されたコラム。この本では、フィクションに登場する先生たちのコラムが多数収録されている。特にこれは良い評論。
 
 僕は北の国からをみたことがないのだけれど……みてみたくなる。主張の根拠となる具体例も示されているし、主張される視点に押し付け感がない。こういう文章を僕も書きたい。と常に思う。
 

また、UFOという装置を通して、教師が本来的にある種の異界(日常を超えたもの)とつながりを持つ存在(異人)であること、そして、それゆえに非難にさらされる可能性を常にはらんでいることが示されています。
(中略)
幾つもの挫折を経て、信頼の中で人と人とをつなげる存在(コーディネーター)として再生した涼子先生の姿には、困難な時代の中でも教育への一筋の希望が透けてみえるように思われます。(pp130-131)

 
 
 カリキュラムについて。結果を記録していくのではなく、実態に合わせて次の授業をデザインしていく、という意味だったのか。さっき僕が、「どういうことだろう。計画を実行に移す際に、その結果がどうだったかを書き加えていくということだろうか? もしそうなら、スケジュール帳と同じ感じだ。そういうのならわかる」と理解したのは間違っていた。そうかなるほど。
 
 いわれてみると、第1~6章でも、ずっとそういうことを主張されてきた。ことに今気づくことが出来た。理解プラス1だな。うれしい。
 

学習指導案」中心の検討から、単元全体の構想を重視し、学習活動の履歴を書き表し、生徒の実態に合わせながら次の授業をデザインする「学習展開案」へと、教師が記録作成する案の内容や名称を変えることができることの意義に気づきます。(p136)

 
 
 校長職の年齢について。管理職一般にいえることかもしれないなと考えながら読む。
 
 とはいえ、校長として勤務する期間が少ないという指摘は、ほんとうだ、と思った。長くしたほうが良さそうなのかなとも漠然と思う。
 
 僕にとって、この話題は遠すぎて実感がわかない。が、重要な事なのだろうなとも思う。
 

現職教育、授業、学習に精通していることは当然として、教育行政に関する見識、社会の動向についての幅広い視野などが、校長には求められているのであり、一般教師とは異なる専門性が要求されているのです。
 日本の場合、2014年度に新たに公立学校校長に登用された校長の年齢を見れば、50代以上が98%程度を占めています(文部科学省初等中等教育局初等中等教育企画課[2015]。55歳が最多であり、中央値でもあります)。また、OECD経済協力開発機構)が前期中等教育段階を対象として2013年に実施したTALIS(国際教員指導環境調査:Teaching and Learning International Survey)2013によれば、日本の校長の平均年齢は57.0歳であり(参加国・地域平均49.4歳)、50歳代が80.4%(同前47.5%)を占めています(国立教育政策研究所編[2014]、94頁)。これらの数値は、校長として勤務する期間が短いことを示唆するものであり、専門性を開発する期間を、校長に対して十分に提供できていないのかもしれません。(pp169-170)

 
 
 1923年に植民地(台湾)で行われた教育について。教師の聖職性が、権力を覆い隠すために用いられていたのか。こわい。
 
 立場が対等ではない関係においては、きれいなレトリックが、欺瞞的やさしさをうかがわせながらあらわれるのだな。勉強になる。やられる側もやる側も、このことについては常に気をつけている必要がありそうだ。
 

1923年に作成された台湾総督府『公学校用 国語読本』です。植民地での教育というと、強権的・強圧的な教育を想像しがちですが、子どもの自主性や自発的協力を獲得しうるような教師の愛情や慈悲深さを理想として強調する傾向も同時にあったことに注目したいと思います。当時の台湾では初等学校すら希望者全員が入学できませんでした。また日本の内地の師弟と台湾の本島人の師弟との教育機会の差別もありました。これら教育制度上の不備に対する不満が台湾の人たちの間で高まる状況がありました。植民地教育行政の不満をそらす意味においても、教師の聖職性は植民地において内地よりもいっそう求められる傾向にあったのです。挿絵に感じる子どもに教師が媚びるような一種のあざとさも、植民地教育の権力性を覆い隠すための教師の欺瞞的やさしさをうかがわせているからではないでしょうか。(p188)

 
 
 教師と生徒の、制度化されたことによって変化した関係性について。
 
 学校教育で部活動の占める空間が奇妙なほど大きいのは、歴史的なカウンター(一斉教授法に対し、個別指導が重要だというカウンター)だったのか。
 

近代教育は、教師と生徒との出会いは制度化された枠内において成立することとなりました。いわば取り換えの可能な教師と取り換えの可能な生徒との出会いといってもいいでしょう。取り換えのきく関係だからこそ、ことさらに権力性を排し一種の対等性を強調し人間的な関係を築く中で子どもを教育する必要があったともいえるのではないでしょうか。また授業の場において個と個の関係を築き得なかったことから、日本の学校教育ではことさらに部活動において子どもと教師の人間的ふれあいを求める傾向がありました。(p197)

 
 
 デイビッド・マレーという人が、1873年に、近代家族のイメージを世間へ訴えかけていたという。現在一般に言われる、母子関係のイメージって、日本においては1890年代に形成されたものだったのか。知らなかった。
 

「お雇い外国人」のデイビッド・マレーは、1873年に「夫レ女子ハ児童ヲ遇スルニ其情愛忍耐アルコト男子ニ優レリ。且能ク児童ノ情ヲ酌ミ、及児童ヲ扶養スルニ至テハ、男子ヨリ能ク之ヲ熟知セリ」と述べ、女性教師の養成の推進を訴えています。子どもを愛し理解し世話するということについては、男性よりも女性のほうが優れているがゆえに、女性こそ教師にふさわしいという主張です。
(中略)
マレーや森の女性教師の雇用推進の主張は、近代家族の成立を前提としていました。女性こそ教師であるという主張は、夫が外で働き妻が家庭で家事育児を行う近代家族の性役割にのっとっています。しかし、日本において近代家族のイメージが成立したのは、1890年代の中産階級においてです。母子関係を中核とし、情緒的な結びつきによって特徴づけられる家族そのものが、いまだ成立していなかったのです。
(pp210-211)

 
 
 ケアと再生産の役割について。“女性が家庭で担ってきた”という歴史がある。そのあとの提案がたいへんうなづける。“女性と男性の双方をケアするものへと育て”る。そうだなと思う。
 
 マッドマックス 怒りのデス・ロードで、マックスとニュークス(ともに男性)は壊れたエンジンを直したり、傷ついたフュリオサをケアする役割を担っていた。あ、よく思い返すと、彼らは吸気口にガソリンを吹きかけてエンジンを壊し、直した。これは再生産だ。そして、マックスの行動を導く存在は、女児だった。要は、役割の脱構築がある、ということを言いたい
 
 なんか希望を抱く。可能だなとふつうに思える。
 

必要なケアを受けていない子供は日本でも増加しつつあります。それに対して母性を賛美し女性を再び家庭に押し込めようとすることは、無意味であり有害です。家父長制の家族、男性による女性の支配の上に成り立っていた家庭が解体するのは必然です。しかし、女性が家庭で担ってきたケアと再生産の役割の重要性は明白です。子どもにとって、かけがえのない存在として大切にされること、信頼関係の中で安心して育つことは必要なのです。ノディングズとマーティンの構想は、単に学校にケアの関係を成立させようとしているだけではありません。女性だけがケア役割を担ってきた歴史に対して、女性と男性の双方をケアするものへと育てようとするものとなっています。(pp224-225)

 
 
 文章が臭いぞ。誰かと思えば、さっきの人だ。どうしたんだ?
 
 求められます[誰によって?]と、wikipediaのあれを付けたくなる。極めつけに、抽象的な恐怖で読者を煽って、“~しか解決することはできない”と煽る。うーん。末尾の参考図書で、佐藤学さんが自分で書いた本だけを5冊紹介しているのもどうかと……。
 
 このような文章は、僕は絶対に書きたくないと強く決意する。知性を高めていきたい。
 

要請しています。(中略)これからの教師には求められます。(中略)問われることはまちがいありません。(中略)求められています。(中略)要請しています。
(中略)
世界規模における環境破壊と貧富の格差の拡大、テロリズムと局地戦争に象徴される平和の危機の拡大、子供をケアし教育する社会システムの崩壊、文化的な葛藤と差別の拡大など、グローバリゼーションによる一連の危機の拡大は、教育の公共的使命をいっそう重要で切実なものとしています。さらに市民社会と学校教育の双方における「公共性」と「民主主義」の危機は、教師と市民が連帯した改革を推進することによってしか解決することはできないでしょう。(p238-240)

 
 
 
 本の表紙に“豊富な事例を交え、具体的な教師の姿をとおして「教職とは何か」を解説する”と書かれている。それは教師の具体的な研修のようすだった。それに、執筆陣からのうなづける論点の提案や、見事な言葉の表し方が多い。多様な視点から豊かな知性は育まれるのだな。と思う。能動的な読書を楽しむことのできる本だった。


新しい時代の教職入門 改訂版 (有斐閣アルマ)

新しい時代の教職入門 改訂版 (有斐閣アルマ)