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知らないことを調べるブログ

映画の分からないところを調べてまとめる場所にしていきます。

読書「要説 教育制度 [新訂第三版]」

 教職科目シリーズその3。“教育と教育制度”と題された第1章に、教育制度の定義が次のように示されている。
 

 教育制度とは、①教育の目的を達成するための、②社会的に公認された、③組織(人と物との体系的配置)をいう。①に関しては、教育活動を行うことによって直接教育目的を達成する「直接的教育制度」(学校教育制度のみでなく社会教育制度も含む)と教育活動の条件を整備することによって間接的に教育目的の達成に貢献する「間接的教育制度」(教育行政精度や教育財政制度)に区分される。②に関しては、社会的公認が法制的ルートを通じて行われ、法的根拠をもって成立する「法制的教育制度」(義務教育制度など)と社会生活の必要から自然発生的に成立し、社会慣行として定着した「社会慣行的教育制度」(徒弟制度、塾など)に分けられる。③に関しては、各種の教育機関や組織をとらえるレベルとこれらの教育機関や組織が相互に結びつく一つの体系ととらえるレベルとに分けることができる。(p4)

 
 教職入門では、具体例とともに教員生活の実態が語られた。教育原理では、教育の目的が各種法律の条文と合わせて語られた。おそらく、教育制度を扱うこの本では、教員の業務や教育の目的が、どのように運営されることによって成立しているのかが語られるのだろうと予想(だって教育制度だ)。
 
 この本は、2ページで1セットに成っており、左ページが本文、右ページが付録という構成になっている。
 
 
 
 人類がたどってきた教育制度の歴史について。人間観・能力観・教育観が、少しずつ移り変わっていく。ここでいう原始時代とは、原人が誕生する100万年前から、農耕生活に入る1万年前まで。

古代とは、新石器時代の前8000頃から、ヨーロッパの修道院やアジアの律令制度が始まる800年頃まで。

中世とは、フランスで農奴制が成立する950年頃から、イギリスでマグナカルタが制定される1260年頃まで。

絶対主義とは、百年戦争の始まる1340年頃から、ルソーが社会契約論を唱える1760年頃まで。

近代とは、アメリカが独立する1770年頃から、ナチスが政権を取る1930年頃まで。

現代とは、第一次世界大戦が終わる1920年頃から、現在まで。

原始時代では、生き延びることが重要とされた。中世ごろには身分によって役割が分かれていく。近代になると、権利と可能性の市民社会になる。現代では福祉が発達。

人類教育制度史略年表
(中略)
?原始時代(中略)人間観・能力観・教育観:体力重視、生得的能力感
(中略)
①古代 身分別文化伝達型(1)(中略)人間観・能力観・教育観:体力重視、戦闘力訓練、知育・徳育分化、生得的能力観、白紙説
(中略)
②中世 身分別文化伝達型(2)(中略)人間観・能力観・教育観:身分的分化:貴族ー文化的教養、武士ー戦闘訓練、自由市民ー学問、農奴ー生活知/生得的能力観
(中略)
絶対主義 固定教養注入型(中略)人間観・能力観・教育観:身分的分化:君主ー統治力、臣民ー識字力・愛国心・戦闘力/生得的能力観、白紙説
(中略)
④近代 親代わり知育型(中略)人間観・能力観・教育観:階級的分化、理性(前頭連合野)の所有者、無限の可能性/後天的能力観
(中略)
⑤現代 学習権保障型(中略)人間観・能力観・教育観:社会権、発達段階、脳の調和的発達、学習者中心主義(pp12-16)


ユネスコの学習権宣言について。たいへんまっとうなことであり、ここで定義されていることができなくなったら困るなと思う。ただ、権利で用意した枠組みを運用すると、どうしても曖昧さが問題になるよなとも思う。

前に、外山恒一さんから「権利で全て解決しようというのは、いかにも西洋的な価値観だよね」と話をされたことがある。それ以来、このときの外山さんの話の趣旨を考えている。権利意識は西洋的とはどういうことだろう?

権利どうしが対立したときに、公共の利益という実態のない同意が登場することへの反感なのかな、と今は想像している。公共の利益は、時代の移り変わりに対応できて良い。けれど、曖昧だなあとも思う。

ユネスコ「学習権宣言」(1985年)
学習権を承認することは、今や、以前にもまして重大な人類の課題である。
学習権とは、
読み、書きできる権利であり、
疑問をもち、じっくりと考える権利であり、
想像し、創造する権利であり、
自分自身の世界を知り、歴史を綴る権利であり、
教育の諸条件を利用する権利であり、
個人および集団の技能を発達させる権利である。(p27)


諸外国での学校体系の類型について。アメリカとドイツとフランスの名前が出た。

前に、多数の問題を抱えた学校をえがいた「パリ20区、僕たちのクラス」という映画で、学級崩壊のようすを見た。あの舞台となった学校は、前期中等教育を行っているコレージュだったのかな。

系統性と段階性によって諸外国の学校体系を①単線型、②分岐型、そして③複線型の体型に分類することができる。①としてはアメリカ、②としては初等教育段階を統一したドイツ、前期中等教育段階までを統一したフランスの学校体系がそれぞれ挙げられる。(p42)

前期中等教育は、コレージュ(4年制)で行われる。(p46)

フランスのように人種が極端に偏っていない社会だと、課題への関心の集まり方に日本と違いがあるのだろうなと思う(言語、貧富、居住区など)。

 日本とフランスの民族構成が知りたいなと思った。でも調べることができなかった。手元にある「2010 Vol.22 データブック・オブ・ザ・ワールド 世界各国要覧と最新統計(二宮書店)」には、フランスの民族の欄に“フランス人(ケルト人・ゲルマン系・古代ローマ人などの混成)、少数民族ブリトン人・バスク人・コルシカ人など)、移民(南ヨーロッパ系・マグレブ系・トルコ系など)”と書かれている。比率がわからない。映画「パリ20区、僕たちのクラス」には中華系や黒人も多かった。
 
 民族構成はデータが無いのかな。そんなはずないと思うんだけど。たぶん探し方の問題だろう。どこにデータがあるのだろう?
 
 

産業革命と施設保育の始まりについて。"産業革命による児童労働・婦人労働の普及と労働者の生活環境の退廃"とある。えっ、そうなのか。この3つとも知らなかった。

この文は、どこまでが産業革命によるのだろう。句読点がほしい。産業革命によって、労働者の生活環境がどのように変化したのだろう。興味がある。

最初の施設保育の試みはフランスのオーベルランの編物学校(1770年)やイギリスの空想的社会主義オーウェンの性格形成学院(1816年)であった。これらの試みの背景には、産業革命による児童労働・婦人労働の普及と労働者の生活環境の退廃があった。(p56)


幼稚園教諭・保育士の資格と養成について。資格が別なんだ。意識したことがなかった。同時取得することが主流であると良いな、と思うのだけれど、実態はどうなんだろう? 僕はぜんぜん知識がないな。

幼稚園教諭の資格は免許制、つまりその職に就くためには、「教育職員免許法」に規定される幼稚園教諭免許状(専修、一種、二種)あるいは幼稚園助教諭用の臨時免許状を持たなければならない。また、その養成は大学(短期大学を含む)の養成課程で行われることを原則とする。他方、保育士は免許制ではなく、厚生労働大臣の指定する保育士養成学校等(「指定保育士養成施設」という。就業年限2年以上)を卒業した者および保育士試験に合格した者に「保育士となる資格」が与えられ(養成と試験の2系統制)、最終的に保育士登録を行った者が「保育士となる」ことができる(一つの都道府県に登録申請を行い、申請者には都道府県知事の「保育士登録証」が交付される。一度登録を行うと、他都道府県でも保育士として従事できる)。
(中略)
幼保機能の合体した「認定こども園」の創設(2006年10月)に象徴されるように、近年、幼保の連携・一体化が進む中、幼稚園教諭免許と保育士資格の同時取得の必要性が高まり、両者の養成課程の整合性を促進する改善策や免許・資格の所有者が相互にそれぞれの免許・資格を取りやすくする対策等が取られてきている。(p66)

リベラル系ラジオ「session22」4月23日放送分で、幼稚園が乳幼児の受け入れを開始することについての回があった。幼保資格について、幼稚園の先生はどちらも取得している人がたいへん多いらしい。が、実務経験がどちらか一方のみの人が多いため、研修の必要性を出演者が訴えていた。なるほど。実態を少し知ることができて嬉しい。

荻上チキ:新しくこれから人を入れます、でも今までどおり頑張ってください、というわけには当然行かないので、そのあたりを専門的な知見のある人をちゃんと配置することができるのか。この辺りですよね。
猪熊弘子:そうですね。やはり現実的には保育士が足りていないんですね。ただ、その今幼稚園と保育園の免許を両方持っている方というのは非常に多くて、幼稚園の先生でも保育士の免許を持っている方は非常に多いわけなんですね。ただ、それでも、現実に幼稚園で、3~4、5歳の子供と接するのと、0~1歳の子供と接するのではやはりわけが違うので、まったくその、資格を持っているとしても、初めて0~1歳を預かることになったという場合、非常にもう一から勉強しなおしという世界だと思うんです。ですので、その部分の研修が手厚くできるかどうかとか、安全に保育ができるかどうかといったところは、やや心配な面もあるので、そこの研修をなどもちゃんとできるような、人材確保プラス研修ができるようにしていただけると、非常にありがたいかなというふうに思います。

【Podcast】荻上チキ×猪熊弘子「文科省が”待機児童の幼稚園で積極的受け入れ”を通知。問題は解消されるのか?」4月22日(金)放送分(TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」平日22時~) | TBSラジオ AM954 + FM90.5~聞けば、見えてくる~


初等教育から宗教性が次第に排除されてきた歴史について。3R'sって何? コトバンクによると、読み書きそろばんのことだそうだ。3R'sっていうんだ。

なるほど、文中の"キリスト教の教義とともに、読み書き算術を施す教会学校への通学が、信仰上の義務として課されるようになった"というところが、宗教色が排除されてもなお残ったということなのだな。

宗教改革期において、まず教会が一般庶民の教育について関心を持ち、キリスト教の教義とともに、読み書き算術を施す教会学校への通学が、信仰上の義務として課されるようになった。その後、産業革命や市民革命が達成され、近代国家が成立するに伴い、国家によって民衆の初等教育機関への通学が奨励(または強制)されるようになった。そのため、庶民の学校からは宗教教育が次第に排除され(教育の世俗化)、3R'sの教育がその中心を占めるようになった。これは近代公教育の原理(教育の中立性)に基づいた変化といえる。(p74)

世界大百科事典内の3R'sの言及
【教育】より

…そして,人権としての教育をすべての者に機会均等に保障するためには,公費による学校制度(公教育)の整備が不可欠であり,かつまた,そこでは思想・信教の自由の原則と抵触しないためには,公教育から宗教教育が除かれ(非宗教教育の原則),科学と実用的知識を中心とする学校となることが求められた。 しかし,現実の庶民の教育機関は,教会によって組織された教会学校での初歩的な読みreading,書きwriting,算reckoning(この三つをスリーアールズ3R’sという)とともに教理問答(カテキズム)を主とする宗教=道徳教育を中心とし,社会への同化と社会秩序維持のための手段として発展し,さらに資本主義の発展に伴い,工場法による児童労働への一定の保護規定と結びついて発展する。しかし,そこでの教育は,個人の可能性を引き出すeducereという意味での教育educationというよりは,既成の価値観を注入するという意味での教化=インドクトリネーションindoctrinationに近かった。…

3R's(すりーあーるず)とは - コトバンク


世界の中等教育制度が、20世紀から現在までどのように改革されて続けているのかについて。 "教育年限の延長は世界的趨勢であり"とある。世界各国のいまの9年間前後の義務教育は、延長されてきた結果なのか。

高等教育へ移行するとき中等教育が終わるので、日本においての後期中等教育とは、15-17歳の3年間だ。

20世紀後半から続く主な改革動向は以下のようである。
前期中等教育の義務教育化:教育年限の延長は世界的趨勢であり、一般に前期中等教育段階までを義務期間とする傾向が強い。
②単線型学校系統への移行:中等教育の大衆化に伴い、とくに西欧において伝統的な複線型・分岐型学校系統への批判が強く行われてきた。今日、職業技術の訓練に焦点化した中等教育とアカデミックな領域を中核とする中等教育との間に明確な区分を設ける国においても、中等教育段階での学校選択が、高等教育への接続における障壁とならない仕組みを整備する場合が多い。(p104)

趨勢とは? 社会の流れのこと。

デジタル大辞泉の解説
すう‐せい【×趨勢】

ある方向へと動く勢い。社会などの、全体の流れ。「時代の趨勢」「世の趨勢を見極める」

趨勢(スウセイ)とは - コトバンク


 高等教育の、国公立と私立との比較について。国公立と私立には、教育研究環境条件における格差があり、年々その格差は縮まりつつあるが特に格差是正のための私学行政のあり方が問題となっている。とある。
 僕は、国公立の学費が高くなっていくことを否定的に捉えていたので、この現象を格差是正と捉える考え方があったのか、と衝撃を受ける。

貧乏で学費が払えないから国公立へ行く、ということだと思っていた。私学への助成を少なくして欲しいと思っていたのだけれど、よくわからなくなった。もうちょっとちゃんと知識を付けないといけないな。判断ができない。

平成17年5月現在、大学(大学院含む)の場合、機関数では76.2%が、在学者数でも73.7%がそれぞれ私立で占められている。短期大学では、私立が占める割合は機関数で89.3%、在学者数で92.7%とさらに高くなっている。大規模化傾向も顕著で、1万人以上の学生を有する大学は1,950年代には10校程度に過ぎなかったが、現在では4倍以上に増加し、その大部分が私立大学となっている。
(中略)
こうした大衆化状況の中で、教育研究環境条件における格差の問題が存在する。例えば、本務教員1人当たりの学生数をみると、国公立大学の10人程度に比べて私立大学では24人近くになっており、学費についても私立は国公立に比べて平均で1.7倍近くとなっている。年々その格差は縮まりつつあるが、特に格差是正のための私学行政のあり方が課題となっている。(p116)


教授や準教授の定義について。初めて定義を見た。そういう違いなのか。新しい制度になって、教授の質によってグラデーションが分かれ、助教授と助手が統合された感じなのかな。助手と状況は、役割の違いがあるだけで、ランクは同じなのかな。上手な表し方が思い付かない。なぜなら、ちゃんと考えたことがないからだ。

現行制度
教授 学生を教授し、その研究を指導し、又は研究に従事する
助教授 教授の職務を助ける
助手 教授および助教授の職務を助ける
新しい制度
教授 特に優れた知識、能力を及び実績を有する者+学生を教授し、その研究を指導し、又は研究に従事する
准教授 優れた知識、能力および実績を有する者+同上
助教 知識及び能力を有する者+同上
助手 所属組織の教育研究の円滑な実施に必要な業務を行う(p119)


特別支援教育の対象になる生徒の数について。LD、ADHDを抜きにしても、イメージしていたよりも多かった。2006年からの新たな対象者である、引用内の進級指導はおそらく通級指導の誤植だろうな

全学連児童生徒数1092万人
通常の学級 LD・ADHD高機能自閉症など 6.3%程度の在籍率(約68万人)
進級指導 視覚障害聴覚障害・肢体不自由・病弱・言語障害・情緒障害 0.33%(約3万6千人)
特殊学級 視覚障害聴覚障害知的障害・肢体不自由・病弱・言語障害・情緒障害 0.83%(約9万1千人)
盲・聾・視覚障害聴覚障害知的障害・肢体不自由・病弱 0.48%。(約5万2千人)(p135)


1,920~1946年の社会教育(学校以外の教育活動)について。公民館とは、”教養の向上、民主主義の実際的訓練、平和主義の振興の拠点”だったのか。市民の交流の場およびその会場ぐらいに考えていた。そういう敬意があったのだな。近所の公民館には簡単な図書館があるので時々利用する。教養の向上だなあと思う。

1920(大9)年には府県に社会教育主事が置かれ、1921年には通俗教育が社会教育に改められた。そして、1924年には文部省に社会教育課が誕生し、1929年には社会教育局が新設されるなど、社会教育としての行政機構が次第に整備されてきていた。しかしその一方で、社会教育は教化政策としての国民精神総動員運動の一部に組み込まれてしまった。
戦後直ちに国民教化体制は一掃され、民主主義啓蒙のため、公民講座、「公民ノ集ヒ」、青年公論会などが開催された。1946 (昭和21)年には教養の向上、民主主義の実際的訓練、平和主義の振興の拠点として公民館の設置が開始された。(p162)


 生涯学習成果の評価と活用について。何が書かれているのかが絶望的にわからない。つらい。“「自己評価」を基本とした主体的・自律的な運用”では、他人にスキルを伝える目的では活用できないと思うのだけれど。資格試験で客観的な評価を作るということではいけないのだろうか? ここではそれは一切触れられていない。そういうことではないのだろうか。
 
 カッコを多用していて読みにくい文章だ。
 

1999年の生涯学習審議会答申は、「学習の成果を活かすための方策」を検討し、行政は「学習機会の提供」ばかりでなく、「生涯学習成果の活用促進」にも力を入れるべきであり、「活用の機会や場の開発」と合わせて「個人のキャリア開発」「ボランティア活動」「地域社会の発展」に活かすため、「生涯学習パスポート」の仕組みを提言している。
(中略)
生涯学習成果の評価・認証(認定)システムは、学歴のような一元的なシステムではなく、多様な目的・基準・手続きによる多元的なシステムとして整備されなければならない。たとえば、目的としては「学位取得」(学位志向)や「キャリア開発」(キャリア志向)などがあり、手続きとしても学習内容や評価基準を「事前に」示すもの(過程志向)から、学習成果を「事後的に」評定するもの(認定志向)まで多岐にわたる。(p174)

 
 
 教育財政制度の、設置者負担による格差を是正するために実施されている、財政調整制度の問題点について。むずかしくてぴんとこない。
 
 歳出の割合が国と地方とで不均衡である格差と、地域ごとの産業の不均衡から生まれる格差と、学校の公私の違いによる格差がある。それらを是正するために、1)国がお金を配ってくれる制度と、2)国がお金を配ってくれる制度と、3)国がお金を配ってくれる制度がある。と読む。1)と2)と3)の違いとは? 補助金と、地方交付税と、国庫負担金って、どう違うんだ?
 

設置者負担主義原則には、①国と地方の税制上の配分=財源が所掌事務に要する歳出の割合と比べて不均衡な垂直的格差、②産業構造の地域的不均衡に基づく水平格差、③学校制度の公私二元体制による公私間格差等、様々な財政格差から生じる問題が指摘されうる。このため実際には教育財源の保障を目的とした「学校経費負担の特例」が多数設けられざるをえない。
上記の格差是正のため、①垂直的調整制度としての国庫負担金・補助金制度、②水平調整制度としての地方交付税制度、が実施されてきた。また、公私間格差に対しては1970年以降私学の「公共性」の観点から私学助成制度が拡充されている。地方財政調整制度の問題点として、①補助金制度には、地方財政間の格差にもかかわらず一律に交付され、応分の地方負担が義務づけられるため、補助事業への過重負担を逆に助長する懸念もある。②交付税制度には、交付金が一定基準に基づき一括して地方財源に繰り込まれ使途の指定はなく、算定基準が「必要最低基準」の確保というレベルにとどまり、単位費用の見積りも低いなど、改善すべき課題が残る。(p190)


 学校評価のあり方について。アカウンタビリティって何? 説明責任のことか。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
アカウンタビリティ
アカウンタビリティ
accountability

会計上の責任をいう。企業会計は株主その他出資者から資産の管理運用を委託された受託者の立場を表わし,日々の取引を記録,分類,計算し報告する会計の一般的手続はこの受託責任を明らかにする行為であると考えるのである。

アカウンタビリティ(アカウンタビリティ)とは - コトバンク

 “学校評価のあり方は大きく異なるものとなる”とある。そうなの? 専門家による評価を、保護者や地域住民へ説明すればよいのではないの。そういうことではないのかな。うーむ・・・この章は僕には難しくて理解ができない。現状をまったく知らないからそう感じるのだろう。

2006(平18)年3月27日に公表された学校評価ガイドラインでは、学校評価の目的、方法、評価項目、評価指標、結果の公表方法等についての枠組みが示された。
政策文書では、いまだ「外部評価」と「第三者評価」の用語法とその定義は確定していないが、保護者や地域住民へのアカウンタビリティを重視した評価をめざすのか、学校教育における児童生徒の学力達成度に視点をおいた専門家による評価をめざすのかで、学校評価のあり方は大きく異なるものとなる。(p206)

 
 
 
 制度とは、教育段階ごとの学校体系と、義務教育と、公私の連携と、教員の養成と、財政の配分と、学校評価を、適切に行うための取り決めのことをいうのだな。とわかった。わからなかったのが、公私の連携と、財政の配分と、学校評価の部分。たぶん、他の本を読み進めて、再びこの教育制度の本を読むと、少し鮮明になっているのだろうと思う。と願う。

要説教育制度

要説教育制度